葛西の古い町

9時起き。朝飯にパン、缶詰のタイカレー、ローストビーフの残りを食べる。

10時前にコンビニへ行き、コーヒーを買って帰る。

昨日、Linux Mintを19.3にアップデートした。終わった時点では問題なかったのだが、今日PCをつけると、画面が真っ暗なまま止まり、ログイン画面へ遷移しなくなっていた。
ビデオドライバ関連の問題だろうと思い、リカバリモードで起動し、スマホで情報を集め、Nvidiaのドライバをインストールした。しかし、症状は変わらなかった。
カーネルの古いバージョンを選択して起動すると、無事ログイン画面に辿り着いた。しかし、今度はリカバリモード中に入れたドライバが競合し、ビデオドライバのアップデートができなくなってしまった。
そのあたりで、「キーッ!」と初ヒステリーを起こし、PCの電源を切った。今日は初走りをするつもりだったのだ。こんなことに時間を費やしている場合じゃない。暖かいうちに走らなくては。

1時半、走りに行く。

国土地理院が公開している昔の地図や航空写真を見るのが好きだ。江戸川区南部をよく見る。
清新町や臨海町ができる前の、旧海岸線があった時代に栄えている地区が、現在と大きく異なっていることに興味がある。
1969年に東西線が開通。1973年頃から埋め立て事業が始まる。1979年に西葛西駅が開業。その10年は、後の発展の地ならし期だったので、それ以前と比べ、栄えている地区に変化はない。
西葛西駅ができてからの10年はすごかった。環七が開通し、清新町に次々とマンションができ、臨海町には港湾地区にふさわしい規模の倉庫や会社が誘致され、プールガーデンができ、臨海公園ができた。江戸川区南部の栄えている地区は過去の地区と入れ替わった。

おれが江戸川区南部に引っ越してきたのは、西葛西駅ができる少し前だった。その頃、町の名前は、東西南北+葛西という味気ないものではなかった。西葛西2丁目から5丁目あたりは小島町、6丁目から南葛西が新田町、東葛西の南側は仲町と雷町、東葛西の北側は長島町、北葛西は宇喜多。大体そんな感じだった。

おれが住んでいたのは小島町。1940年代の地図を見るとほぼ何もなく、埋立地でもないのに広大な空き地が広がっている。戦争中も江戸川区南部は空襲の被害が少なかった。焼夷弾を落としても延焼する家屋がないのだ。
そのまっさらな土地に高層集合住宅が建てられるようになったのが1974年だった。西葛西駅開業を見込んで建てられたのだろうが、開業までは5年もあったので、大きな団地やマンションの建設が一通り済むと「駅待ち」となり、開発はややスローペースになった。

その「停滞期」は、おれの幼児期と重なる。家の周囲には空き地がたくさんあり、遊ぶ場所には事欠かなかったが、お店というものがなかった。スーパーマーケットは小島団地の1階にあるセイフーチェーン、中葛西の石川屋、北葛西の長崎屋くらいしかなかった。子供御用達のおもちゃ屋は、三角まで行かないとなかった。三角というのは葛西図書館近くの三叉路のことだが、当時はこぢんまりとした商店街になっていて、幼児のおれはそのへんを「都会」だと思っていた。

小学二年生になった頃から西葛西駅の建設が始まった。そして古い町名が東西南北+葛西の組み合わせに変わった。新葛西病院ができた。南葛西になぎさニュータウンができた。葛西駅にメトロセンターという商店街ができた。町に何かが起こりつつあった。

自転車に乗って隣町まで「冒険」することの楽しさに気づいたのはその頃だった。旧海岸線の堤防に沿って走ると、堀江団地を過ぎたあたりから広大な空き地が広がっていた。旧江戸川河口からは海が見えた。帰り道、まだ環七が開通していない頃の「仲町」で道に迷い、同行したKくんに「どうすんだよう!」と泣かれたこともあった。

西葛西駅ができてから、一時停止中だった町の発展は再開した。スポーツセンターができ、ジャスコができ、ダイエーができた。駅の周りにビルが建ち、おもちゃ屋、本屋、ゲームセンターができた。今の江戸川区南部は、この時期に大まかな雛形が作られたといっていい。

で、やっと、今日の話。
長島町というのは、今の東葛西の北側にあたる地区だったが、神社仏閣がやたらに多い。どうも室町時代から集落として栄えていたらしい。
子供の頃、自転車であちこちに「冒険」したが、なぜか長島町は行ったことがなかった。行く理由が見つからなかったからだ。しかし、昔の航空写真と今の地図を比べていると、町並みは現在とそれほど変わらないのではないかという気がしてきた。
そこで初走りがてら、そのあたりを「冒険」してみようと思ったのだ。

実家から長島町エリアまではおよそ2キロ弱だ。長島川に沿っていけばたどり着く。この川は今は親水公園になっているが、昔はドブ川で、コンクリートで蓋をされていた。
川に沿って北東に走り、環七と葛西橋通りの交差点を渡ると長島町のエリアだ。Googleマップを開いて「寺社」で検索し、走りながら一つ一つ回ってみることにした。

それほど広くない区画に、あることあること。
中でも梵音寺は平安時代に開かれたらしい。その頃の長島町付近なんて無人の荒地だったろう。その後室町時代になると、港町として栄えたらしいが。
江戸時代になると少し北に新川が開削され、江戸の町と行徳を結ぶ重要な物流ルートとなった。行徳には塩田があり、塩をそのルートで運んだわけだ。

長島町は東側で江戸川河岸に接している。対岸には妙見島という、23区内唯一の島がある。その向こうが浦安市だ。
明治時代の地図を見ると、行徳の辺りには細い運河がいくつかあり、江戸川につながっている。農業用水兼、輸送ルートだったのだろう。塩や野菜は運河から江戸川に運ばれ、妙見島を回りこんでから新川を通った。船が一箇所にまとまるあたりに長島町が位置する。明治時代においても船舶ルートのターミナル港の役割を果たしていたかもしれない。

長島町の寺社めぐりを終えてから、妙見島に渡ってみた。ここは浦安橋からよく見えるラブホテルがある他には工場ばかり立ち並んでおり、人が住んでいる気配はしない。ラブホも1970年代風の場末感をたっぷり漂わせている。中ではトラック運転手と赫い髪の女が無限ループしているんじゃないかと思わせる。

島の北にある妙見神社まで走ってみた。正月ということもあるが、通りには人っ子ひとりいなかった。神社はとても小さかった。場所柄、水難を避けるお守りのような役割をはたしていたのではないか。

江戸川区側に戻り、川に沿って南に走った。その道沿いは、かつて雷と言われた町のエリアとなる。ここも古くから栄えていた。先日読んだ『青べか物語』にも「雷の船大工」というのが登場した。浦安にとって対岸の町だから、船乗りならば気軽に行ける隣町だったのだろう。現在は何の変哲もない住宅地である。

やがて葛西中央通りが旧江戸川に突き当たる場所にきた。ここから実家までは2キロあるので、ペースを思い切り上げて走った。寺社めぐりや島探検をしたおかげで体はいい感じに暖まっていた。

2時半帰宅。2キロとはいえ、全力で走ると息が上がり、すごい量の汗が出た。風呂に入ってから、シュークリームを食べて小腹を満たした。夕食にはちょっと早かった。

両親が妹の家に年始挨拶のため出かけたので、夕食を自分で作った。カレールーと豚肉があるのを知っていたので、カレーライスでも作ろうかと重っだが、鍋にお煮しめの残りがあったので、それをカレーにすることにした。
冷凍あさり、ミックスベジタブルを足し、カレー粉を入れ、水とコンソメを足して味見をしてから、小麦粉でとろみをつけた。実家のお煮しめは砂糖が多めに入っているので、カレー粉を多めに入れても甘口になってしまった。

夕食にカレーライスを食べてから、映画「ディボース・ショウ」を最後まで見た。
ジョージ・クルーニーの「愛の演説」は感動的だったが、そのままでは終わらない。ひねりがありお約束があり、ラストは「愛の演説」が伏線であったかのようなむすびになっている。選曲、素晴らしい。「Suspicious mind」をオープニングに持ってくるなんて。そして、曲に合わせたアニメが素晴らしい。

両親、8時前に帰ってきた。一昨年までは妹の旦那さんの実家まで年始挨拶に行っていたのだが、今年は父の体のこともあり、先方のご両親がこちらに来てくれたのだった。妹の子供三人も勢揃いしたらしい。

映画「アンヴィル」を少し見る。しかし、全部見ると真夜中になってしまうのと、走って疲れたこともあったので、途中でやめた。
2時半就寝。