自分大好き発覚

朝飯に、赤大根のぬか漬け食べる。

風呂に入り、11時40分過ぎに家を出る。本読み会へ。今日の会場は茗荷谷の、四年前稽古で行ったことがある施設だった。
路線案内で検索すると、新高円寺から丸の内線に乗ったまま茗荷谷に行くのが一番早く着く方法だった。ルートを道路に置き換えると、青梅街道で新宿へ、新宿通りを四谷へ、外堀通りを南下して赤坂見附へ、永田町界隈の下を東進し、いったん省線の外側に抜けて銀座へ、有楽町から再び省線の内側に入り、東京、大手町、淡路町とだんだん北西にカーブしていき、お茶の水からははっきりと北西に針路を変え、後楽園から先は春日通り沿いに進み、やっと茗荷谷到着となる。

      ↑ 北海道

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              ↑後楽園
               ↑
                ←
                 ↑
新高円寺→新宿→四谷       ↑
         ↓       銀座
          →↓ 国会→→↑
            →

       ↓ 小笠原諸島

すっげえ遠回りだ。でも、電車の時刻表はこれが一番早いのだからしかたない。

茗荷谷に着いたのは12時43分だった。時刻表では39分に着くはずだったが、電車の到着が4分ほど遅れた。つい舌打ちをしてしまったが、予想以上に大きな音で響いてしまい、こらを見る人がいた。ごめんなさい、許してください。

舌打ちをした理由は、茗荷谷で昼飯を軽く食べるつもりだったからだ。39分に着いていれば、立ちそばや牛丼くらいなら食べられると思っていた。しかし43分だと微妙だ。

会場に向かって歩くと松屋があった。時刻は47分になっていた。まだいける、と思い、素早く店内に入り、牛飯(並)の食券を購入した。

牛飯をかっこんで店を出て、会場に向かった。途中、昔「牛丼太郎」だった店で、今は「丼太郎」となっている牛丼屋を見つけた。しまった、ここで食べたかったと思ったが、後の祭りだった。

会場には58分についた。しかし、入り口が二つあるため、迷ってしまい、エレベーターを上がって部屋に入ったのは1時1分たった。少し遅れてしまった。

今回のテキストは、マーティン・マクドナーの「ウィー・トーマス」だった。マクドナーの本は今年の5月に取り上げられたが、その時は参加しなかった。今回の本は図書館に置いていなかったので、出版社にオーダーして購入した。
アイルランドの島・イニシュモア島を舞台に、暴れん坊テロリストの飼い猫が死んだため、彼に関わる人間たちがやきもきするという話で、暴力描写とブラックジョークに満ちた作品だった。命をなんだと思ってるんだ的なことは一切考えず、むしろ命を軽く扱う方法のバリエーションで笑いをとる作風は、英国の戯曲家ならではだなあと思った。

声に出して読んでみると、台詞が言いやすかった。ブラックな笑いの部分は、荒唐無稽であることで、これはフィクションなんだと示しているように思えた。

5時に会は終了。
その後、茗荷谷の居酒屋で、本読み会の忘年会に参加する。
主宰の大野さんが6月にある芝居で朗読者として出演しており、その舞台を見たのだが、その話をすると氏は、客席におれがいるのがわかっていたそうである。一番前に座っていたからなあ。

8時に散会となる。楽しかったが、話している時に自分を出す加減がわからなくなって少し困った。
芝居をやっていることを隠すつもりはないが、ことさら言うこともなかろうと思っていた。それは正解だったと思う。結果的に、演劇をやっている自分を消すことができたし、おかげで気がつけたことがたくさんあったからだ。それは今後芝居を作る時に役に立つだろう。
ただ、この会は演劇をやっている人のためのものではないのだ。戯曲に興味があり、声に出して読み合うことで作品が立体的に感じられるのを体感する会だし、そこで思ったりしたことを素直に語り合う場なのだ。演劇人の「我」はいらない。
すると結果的に自身のことは話しにくくなる。声に出して読むことの、体感的な心地よさを知っているし、それを感じるためだけなら作品がなんであろうと構わないという「役者自我」が、まずあり、それを捨てたことで、戯曲世界への思わぬ入り口を見つけ、今でも参加しているのだが、そんなプロセスを人に言ってもしかたない。「はあ?」だし、「知るか」だろう。でもそれを言わないと、この会における自分の立ち位置は説明できない。
だから、普段は黙ってしまう。そして、今日の忘年会のように、自身のそういうのを言わないまま、ただの「世間話」をしようとすると、演劇に関したトークをする時に、話がずれる。噛み合わない。

帰り道、自分の話が場の話題と噛み合わなかったことについて考えた。
そして、以前出た、ある芝居のことを思い出した。
その芝居の稽古で、おれは無駄話をほとんどしなかった。日々の稽古に集中し、台詞もかなり早く入れた。千秋楽が終わり、打ち上げに行く前ののんびりした待ち時間の時、若い女優と雑談する機会があった。その時おれは本を読んでいた。彼女は「何読んでいるんですか」と聞いてきた。おれは、これこれだと答えた。その後しばらく雑談したのだが、彼女は、本を読むのが嫌いだと言ってきた。で、おれはその言葉を受けて、本を読むことの大切さを、色々な言葉でわーっとまくし立てた。喋っている途中で、そろそろやめねえとやべえぞ、と思ったが、止まらなかった。案の定彼女はうんざりした顔になった。そんな話をしたかったわけじゃなかったろう。きっと話したいことがあったのだ。でもおれは、そのテーマにまったく食いつかず、自分のことばかり喋ったのだ。
同じような経験は、過去、多々あった。普段全然喋らないおれ。でもひとたび喋り出すと止まらなくなる。意外性の男と思われたはずだと勝手に感じる自己満足。でもその喋りは基本的に「ブログでやれ」系の独りよがり。みんながおれの意見に同意していると信じてなければ出来ないような喋り方だ。あいつ、どんだけ自分好きなんだよ、と、何人に思われてきたことだろう?

自分好き?

それだ。

おれは昔から、自分大好き人間が苦手だった。「自分好きな人って、なんか、アレだよね」なんてことを、自称「自分好きでない人」たち相手に喋っていた。
そしておれは自分が嫌いだった。初めてそう思ったのは中学三年生の時だった。以来ずっと、安定して、自分嫌いであり続けている。

と、思っていた。

しかし、おれの「自分嫌い」の原因は、おれが「自分大好き」だからじゃないのか?
自分好きな人間が嫌いだから、「自分好きなおれ」が嫌い、なんじゃないか?

つまりおれは、自分のことが好きになればなるほど、自分のことが嫌いになるのだ。
いや、それも違う。自分のことが好きで、自分を愛する時、その方法をいつも間違えるから、自分が嫌いになるのだ。

いつも黙っていて、喋る時になるとわーっと喋るなんて、サイテーじゃないか。
小出しに喋るか、あるいは、いざ喋る時の「在庫一掃」をやめろ、ということだ。それは、自分愛しさのあまりやっている行動だ。でも、その愛し方は違うのだ。

10時前帰宅。
ハイボールを飲み直す。