天才の不幸とは

7時半に起きる。
金曜日であることに軽く驚く。
特に忙しかったわけではないのに、妙に早い一週間だった。

切り裂きジャック関連の書籍、読み始める。
この殺人犯の記録が歴史に残ったのは、ひとえに<切り裂きジャック>というネーミングのおかげである。
要するにキャッチーだったということだ。

一日中雨だった。
1月下旬に雨続きは珍しい。

夕方歯医者へ。
前歯の治療が終了。
麻酔がよく効いて、まったく痛くなかったのだが、歯を削る振動音が後頭部から聞こえる不快さはどうしようもない。
歯科助手が美人だった。

8時帰宅。
モツ煮込みを作って食べる。

『黒澤明VSハリウッド』読了。
2002年に著者のインタビューを受けたエルモ氏は、黒澤明をした理由について答えた。
「彼の映画が好きだったからだ」
それにも関わらず、自らの口で解任を伝えねばならなかった。
エルモ氏なりに、現場で黒澤明がいかにプレッシャーと戦っていたか、そして周囲の状況がいかに監督を追い詰めていったかを理解しているようだった。

黒澤明を監督に選んだこと自体が誤りであったというのが、エルモ氏の結論だった。

人間の中には、才能を発揮する自分と、才能をコントロールする自分がいると思う。
天才と言われる人は、才能を発揮する自分が天才なのだが、不幸なことにコントロールする自分は凡人か並以下であることが多い。

才能を発揮する場所を与えられるとする。
普通の人なら、才能を発揮する自分と、才能をコントロールする自分が、二人三脚で仕事をする。
天才の場合は、才能を発揮する自分が、才能をコントロールする自分を置き去りにして、遙か彼方に突っ走ってしまう。

天才には、才能をコントロールするする自分の手助けをしてくれる、外部の人間が絶対に必要だ。
ところが天才を手伝おうとする人々の多くは、彼の中の<才能を発揮する自分>を手助けしようとしてしまう。

天才と、周囲の人間が軋轢を起こす根本的な原因は、そこにあるのではないか。

ジブリの鈴木プロデューサーは、宮崎監督の<才能をコントロールする自分>を助けているのではないか。
そうでなくては、いちアニメ作品に4年も5年もかけることを、プロデューサーという立場の人が許すとは思えない。

黒澤明監督の場合、晩年は長男の久雄さんがプロデューサーをしていた。
『夢』から『まあだだよ』までである。
作品としての評価はともかく、この三作品を製作するにあたって、深刻なトラブルがあったという話は聞かない。
久雄さんは、黒澤明の<才能をコントロールする自分>をサポートしていたのではないだろうか。
機械音痴で、プッシュフォン式の電話機を操作することさえ難渋していた父を知る、本能的な行動かもしれない。

夜、久しぶりに黒澤監督の『天国と地獄』を見る。
いち画面に<演技の情報>がぎっしり詰まった序盤の権藤邸シーンを見て、こういうシーンを監督できる人は凡人では決してないな、と思った。