9時起き。寝過ごしたような、ちょうどいいような、どっちつかずの感じだった。
11時、下北沢『丸長』まで走って行き、昼飯につけ麺大盛りを食べた。
『丸長』といえば、かつて荻窪にあり、行列のできる人気店だったが、数年前に閉店した。沼袋と新井薬師前にあった『丸長』にも、それぞれ行ったことがある。これらも今はない。
『丸長』そのものを知ったのは、かなり昔のラーメン本で、紹介されていたのは目白店だった。いつか行きたいと思いながら、店が開いている時間帯にその近くを訪れたことがないため、行けずじまいだ。この時に読んだ本には、つけダレに酸味が効いていると書いてあった。荻窪、沼袋、新井薬師の丸長は、確かにそうだった。
下北沢の丸長は、昭和時代から続いているようなたたずまいだった。つけ麺に特化した店ではなく、定食なども出す普通の町中華だった。つけ麺の汁は甘酸っぱく、想像した通りの味だった。
食べ終えてから西に走る。環七を渡り、梅ヶ丘、豪徳寺、経堂と、小田急線に近い道を走った。
豪徳寺で、『丸長』の豪徳寺店前を通った。下北沢店よりも年季が入ったたたずまいで、ラーメンがまだ500円くらいで売られているらしかった。今度、食べにきてみよう。
経堂から小田急の北側に出て、荒玉水道を走って帰宅。15キロだった。風が強かったため寒かった。ウィンドブレーカーが必要だ。
流智美『馬場戦記』1巻読了。デビューから、二度のアメリカ武者修行を経て、力道山なき後の日本プロレスにエースとして帰国するまで。1960年4月に入門、9月にデビュー、翌年1961年7月に渡米、1963年3月に帰国、10月に再び渡米、12月に力道山死去、1964年4月にエースとして帰国という流れ。
入門してから力道山が死ぬまでの3年8ヶ月のうち、アメリカのマットに立っていた期間が1年10ヶ月と、ちょうど半分を占める。日本にいる頃、力道山が直々に稽古をつけた時間はそれほどないだろうから、ジャイアント馬場を実質的に鍛えたのは、アメリカ時代のトレーナーであったフレッド・アトキンスであるといえる。
バディ・ロジャースがチャンピオンだったNWA全盛時代に、MSGるシリーズに連続参戦するなど、ヒールとして引っ張りだこの状態だったというのは、柳澤健『1964年のジャイアント馬場』にも詳しいが、本書は、試合結果ベースの通史として、主観より記録優先で詳細に語られているところに価値がある。
1964年に凱旋帰国し、日本プロレスのリングに上がった時のジャイアント馬場の写真が載っていた。落ち着いた表情と、文句なくビルドアップされた肉体からは、王者のオーラがほとばしっていた。こりゃ、いつの時代、どこの団体でもエースだわ。
夕食に、ご飯、かぶぬか漬け、味噌汁。軽夕食。
8時頃まで、『ラディカル・マーケット 脱・私有財産の世紀』読む。
ポテトチップスを揚げ、それをつまみながら、ちょっと前に公開されていた電気グルーヴのYoutube映像を見た。『ヘイコラ』した過去をテーマにした全3回の動画。決められたテーマはどうでもよく、二人がする雑談がただただ楽しかった。
15キロ走ったあとの一汁一菜では当然足りず、チーズトーストを2枚焼いて食べた。
昨日買った小松菜と、冷蔵していた昆布出汁を、それぞれ、賞味期限の関係から使うことにして、高野豆腐と干し椎茸と一緒に含め煮にした。明日の朝用。
バチ抜け関連の動画をYoutubeで見た。先々週の土曜日に行った時はまったく抜けている気配がなかったのだが、映像はその翌日らしく、満潮で流れが止まったあたりでバチがちょろちょろ抜けており、配信者は手元へのボイル打ちで二匹釣っていた。
そういう映像を見ても、自分が釣れるとは到底思えなくなってきた。しかし、次回以降のバチ抜けはさすがにしっかり通って釣果を残さないと、今後釣りに行くモチベーションに影響する。釣りに行く自分を失いたくない。
3時就寝。