猛暑日の連チャン連チャン。
またまた出ました7箱目。
ジャンジャンお出し下さいお取り下さい。
パチンコバブル華やかなりし頃のアナウンスが頭に響く。
今日も猛暑日だった。
朝、冷製スープを食べ、クーラーをつけてダラダラ寝た。
昼前に家を出て中目黒へ。
山手通り沿いの、一見うまそうな洋食屋で、大したことないカレーメンチカツセットを食べた。しかも安くなかった。
目黒川を渡り、キンケロシアターへ。
『人形の家』観劇。
仲澤さんが出演している。
今の時代にこの戯曲をやるには、どこに演出の支点を定めればいいのだろうと考えながら観た。
そのままやったら<歴史物>になってしまう。
19世紀の女性は束縛されていましたよー。
この戯曲は新しい女性の生き方を示唆してますよー、みたいな。
だから、そのままやっても意味がない。
じゃあどうすればいいのか?
21世紀の現在、観客の女性がノラに感情移入するポイントはあるのだろうか?
これが意外とあるかもしれない。
イプセンの時代とは形を変えているが、ヘルメルとノラみたいなカップルは結構沢山いるんじゃないか?
そういうカップルの存在を許す力はどこにあるのか。
この戯曲から、その力の存在を明らかにすることはできないだろうか?
あるいは、その力を提示する方向性で演出すれば、今までと違った『人形の家』ができるんじゃないか。
ヘルメルの手のひら返しシーンなどで、どうしてもヘルメルが<イヤな奴>になってしまうし、普通に演出すればそうなるんだろうなと思う。
しかし。
ヘルメルを悪者にして演出するのは、楽すぎないかと思う。
たとえば、愛すれば愛するほどノラを束縛していき、束縛でしか愛を表現できないことに気づいていないヘルメル像とか。
ノラが自分を騙していたのを知った時も、憎しみは極力出さずに、愛と困惑の間で混乱するようにしてみるとか。
「私はあなたの人形でした」の意味を完全に理解した瞬間、それが別れになるとか。つまり、ヘルメルがその言葉を理解しなければ、ノラは出て行く意味がないみたいな。
なんだか男と女の間にある、普遍的なモノを色々含んでいるなあと。
そんな風に観ながら思ったのだった。
仲澤さんはクロクスタを暗い瞳で演じていた。
そのまま『嵐が丘』のヒースクリフができそうだなあと思った。
似合うかもしれない。
夕方、荻窪の中華徳大で野菜炒め食べる。うまい。熱い。暑い。
ささま書店にて、梅佳代の写真集『男子』購入。
夜、走ろうと思ったが、雨が降ってきたので断念。
明日、油壺の荒井浜へ泳ぎに行くので、お弁当の唐揚げをせっせと揚げた。
ついでにおにぎりをせっせと握った。
中身は、明太子、こんぶ、梅干し。
最近自分の中で、梅干しおにぎりの評価が高まっている.
何かおかずがある時の梅干しおにぎりは、すごくうまいのだ。