昼起き。
納豆キムチとご飯、ラーメン食べる。
走り込みのため、炭水化物多め。
腹が落ち着いてから走る。
東女の横を通り、五日市街道を小金井街道まで往復。20K。
ゆっくりではなく普通のペースで走った。
5キロ走るのに30分もかかっていた。
途中信号で止まったりしたとはいえ、もう少し速いと思っていたので、ショックだった。
シャワーを浴び、夕方東武練馬へ。
サンドイッチとあんパンを買い、稽古場で食べる。
自主練部屋にて、久未ちゃん、中村さんと三人で稽古。
家族三人のシーン。
言い回しや台詞の間を、個人レベルで何とかしたところで、場面全体が良くなるわけではない。
自分だけではなく、その場面に出ている全員が生きた存在になるためにはどうすればいいのかを、演出ではなく、いち役者として考える。
コミュニケーションが重要だと思った。
問題は、どういうコミュニケーションであるかだ。
自分の役は、死んだ父親。
過去の場面に登場する。
父親はいない。
結婚して古い一軒家を買い、母と妻と三人で暮らし始める。
やがて子供ができる。
絵に描いたような幸せだ。
ところが妻は病気になる。
そういうシーンはないが、示唆される台詞はある。
妻は、わからない、ということが好きだった。
難しいことが、楽しみだと言った。
そして家を愛していた。
彼は、住んでいる町の地図を作っていた。
妻の望みをかなえるために、彼は地図に細工をする。
自分たちの住む家を、迷路のただ中にある、たどり着くのが難しい場所に変えた。
やがて地図は完成したが、妻は死んだ。
彼も病にかかり、後を追うように死んでしまった。
残った地図は、長女が引き継いだ。
彼女は、父と母の願いを叶えてあげようと思った。
…というのが、過去の場面の設定だ。
夫婦と、母親三人のシーンは、二つしかない。
結婚して家に引っ越してきたシーンと、お腹に子供が出来たシーン。
どちらも、他愛のない会話をするだけだ。
他愛のない会話を普通にする。
必要なのは、そういうコミュニケーションではないだろうか。
場面を数回返し、他愛のない会話をしながら、幸せを探す。
心配することは何一つなく、幸せを確認するための努力さえ必要ない。
あるがままそこにいて、穏やかに流れる時間を眺める。
時々、自分がその場面で相手のことをどういう風に思っているのかなどを、久未ちゃんや中村さんに伝える。
こういうことができるのが、自主練のいいところだ。
10時半帰宅。
BBCが製作した、東日本大震災のドキュメンタリーを見る。
死者と生者に、敬意が払われているように感じる番組だった。