昼、「鳥どり」で唐揚げ御前。
混んでいて、ホールを仕切っている店員さんが若干切れ気味で2階とやりとりしていた。
カウンターとなりに女子大生二人組。
「経済のテストが」
などなど喋っていた。
日大の学生だろう。
「先輩が電車で席譲ろうとして、おばちゃんに切れられたって」
「マジ?」
「若い子はゆずりゃあいいんだと思ってるって」
「かわいそー」
「どうすりゃいいんだよ」
「ねー」
それはおばちゃんが悪いよ。
若い子は、人口比率もおじさんおばさんじじいばばあより少ないから、この先色々苦労するかもしれないな。
夕方、仕事を定時で切り上げる。
南北線に乗り、永田町方面に向かう。
首相官邸前の原発再稼働反対デモに参加しようと思ったのだが、最寄り駅で降りるべきかどうか迷った。
先週のデモでは、地下鉄の出入り口を一箇所以外封鎖する措置がとられ、かなり混雑していたらしい。
地下で人混みにもまれたまま、終了時刻の8時を迎えるのはイヤだった。
しかし、永田町駅のホームに着いてみると、思ったよりも空いていた。
ここから先は、mixi日記と内容がかぶるので、引用する。
3番出口から憲政記念館前へ向かって歩く。
信号を渡ったところで警官が、
「右に曲がっても行き止まりです」
とアナウンスしていた。
構わず右に行ってみると、
果たして国会正門前で行き止まりだった。そこで人が溜まっていたので、
「再稼働反対」
コールに参加する。そのあたりで、今年初めて、蝉の声を聞いた。
道を戻り、六本木通りに出て、
正門前をぐるっと迂回して南側に出てみる。財務省上の信号は、
おそらく霞ヶ関から続々とやって来る人々でにぎわっていた。
先ほどは北側から正門前に行ったのだが、
南側から行く場合、左手の歩道を行くとファミリーブロックとなっているらしく、
「お子様連れの方はこちらを進んで下さい」
と、誘導ボランティアの人が拡声器で叫んでいた。デモに子供を連れて行くのは反対であるが、
今回のデモは政治色が極めて薄いもののように感じられる。5時半までオフィスで普通に働いていた人々や、
学校に通っていた学生達が、
「そんじゃ、行くか」
と、ぞろぞろ集って来たような雰囲気がある。政権に対して、
「No!」
と強く言いはするけれども、
政治的に何かを画策しようとする意図は、
微塵も感じられない集団が形成されていた。おじいちゃんおばあちゃん、
おじさんおばさんがいる。
おばあちゃんに警官が、
デモのコースを親切に教えている。なんだろうこの光景は?
デモはかくあるべしということを、
力強く言えるほど、
我々日本人はデモを知り尽くしていただろうか?もしかすると、
デモとはなんぞやと言う問いに対する新しい答えが、
今回の集まりにあるかもしれない。かつて運動家達は、
共に石を投げることを強いることで、
孤立を深め、先鋭化していったような気がする。今回のデモは、
共に石を投げることを強いていないことだけは確かだった。
運動に方向性をつけるべく、
絶叫調の演説をぶつ人がいたけど、
今ひとつ盛り上がらなかった。いや、盛り上がってはいる。
集まってるんだから。
でも、その絶叫に対してではない。施政者側、そして、運動を画策する側、
どちらにもコントロールされず自然発生した感じの、
まったりしたデモ。自分にとって、
非常に合った、運動の形だった。施政者側の立場で考えてみる。
ヘルメット、サングラス、マスク、角材で武装した集団が、
拡声器で絶叫してくれるほど、
与しやすいパターンはないだろう。今日のデモは、
その辺の駅で歩いている市民がわらわらと集まって、
まったりとした感じで、
「さいかどーう、はんたーい」
と不器用にシュプレヒコールしているようなものだ。だが、今後もそうであってほしいと思う。
暴力的な行動は一際せず、
警官と、
「暑いっすねえ」
と言葉を変わる若者までいた。これ、弾圧できないだろう。
暴力的手段に訴えようもない、
ぬるっとした集団がゆるい感じで、
「野田政権はいらない」
と訴える声。暴力的に言われるより、相当、こたえるだろう。
だから首相は今日、
官邸への道を封鎖したのだと思う。
精神に効き過ぎるから。デモは毎週金曜日、
首相官邸に対して行われている。
参加者はどんどん増えていくと思うが、
デモは集団の数が増えると先鋭化するという先例を、
ものの見事に裏切って、
まったり感を維持したまま、
15万人くらいの規模になって欲しいと思う。のらりくらりと。
自分の生活第一に考えて。
でも、コツコツと。
今回の官邸デモは、デモを組織して大きな運動にしたいと思う人々にとっては、歯がゆいものだったのではないか。
人が数万人集まり、シュプレヒコールが官邸をどよもし、政権が民の声に恐れおののくような展開にはなりそうもなかった。
警察が通行を制限し、人を分断したせいだと分析する人もいる。
だが、官邸前への歩道がもし封鎖されていなかったら、人の流れが詰まって、交通事故が発生していたかもしれない。
けが人が発生したのは誰のせいかという議論が出てしまうと、本質から大きく外れてしまう。
警察は、現実的に対応していたのだと思う。
というより、ひたすら当惑し、せめて交通事故だけは防がねばと動いていたように見えた。
携帯やスマホで、デモの様子を撮影している人がたくさんいた。
誰もがカメラを持ち、アカウントさえあればtwitterやmixiやFACEBOOKにその写真をアップできる。
Youtubeに動画をあげることもできる。
もしこれが30年前なら、マスコミが大挙して押し寄せたデモでもない限り、あり得なかったかもしれない。
居合わせた人々が、意識することなく<マスコミ>の一部になる。
この場合のマスコミは、報道機関や記者の集合体が擬人化されたようないわゆる<マスコミ>ではなく、システムとしてのそれだ。
シャッターボタンを押す動作に、深い思考の間はない。
反射で押している。
それがいい悪いではない。
いわゆる<マスコミ>もそうなのだろうなあと、改めて実感したということだ。
このシステムに、倫理や道徳を入れることは、本当に難しいのだと、改めて思った。
一般市民が情報を外の世界に発信できるツールを手にした今、プロのマスコミは報道倫理を明確に規定するという点において、一般人との線引きをはかるべきではないかと思うが、ニュースソースが視聴率やアクセス数でニーズを左右される時代だから、おそらく無理なのだろう。
9時帰宅。
『ウォール街のランダムウォーカー』やっと読み終える。