日記を捨てられないことについて

石橋貴明が息子三人とコントをしている夢を見た。起きてから時計を見るとまだ4時過ぎだった。そして、タカさんは娘しかいなかったはずだと気づき、なぜそんな夢を見たのだろうと思いながら布団にもぐった。

6時に起きる。朝食に、さばの塩焼き、大根おろし、納豆、酢豚の残り食べる。

8時15分から仕事。ストアドプロシージャを試作する。Access側でWhere条件を生成する時、EXISTSに特化した文字列にしているため、引数で引き渡すところがうまくいかなかった。

仕事関連の連絡入る。5分ほど話を聞く。今進めている話もあり、どうなるかわからないが、条件はいい。

昨日、瞑想について調べていたら、ガイドラインの初めに、まず身の回りを片付けることとあった。その通りだと思ったが、瞑想をする目的が、片付けられる自分になることだったらどうするのだろうと思った。
現在、ソファとテレビ台を捨てたため、部屋には色々なものが散乱している。収納に悩んだまま、放置してある状態というべきだろう。

マグ関係、学生時代のノート関係、音楽関係、写真関係、交友関係、マラソン関係、Perfume関係、漫画関係、演劇関係、映画関係、PC関係、などの書類や本が積み上げられている。
中には、学生時代の教育実習日誌や、所属していた演劇研究部の部会を個人的に記した議事録まであった。そんなものをなぜ何十年も保存し続けてきたのだろう。
過去2年間まったく見ていないからといって、えいやっと捨てられるかというと、なぜか出来ない。その心理は、どういうふうになっているのだろう。

ノートに、散乱しているものや、本棚にある本、雑誌などをメモしてみた。漫画はもう、それほど持っていない。
「風の谷のナウシカ」全巻。
「湯けむりスナイパー」全巻。
衿沢世衣子の作品群。
手塚治虫、萩尾望都、つげ義春作品の文庫。
捨てるか、誰かにあげるとしよう。

小説は、4年前に一度、いらないものを人にあげた。図書館で借りて読むようにしているのに、それでも4年経つと本棚は膨れ上がる。もし、過去20年に読んだ本をすべて買っていたら、どうだ、オレはなかなかの読書家だろうと、人に自慢できるくらいの物量はあったかもしれない。が、そんなことで自慢してなんになるだろう。

先日古い台本を処分したが、それは押入れに収納していた分なので、部屋の外見は片付いていない。でも、溢れる余地があるほど、まだモノは家のあちこちに存在する。

捨てていないもので一番古いものがあった。15歳から、ネットで日記をアップするようになるまでノートにつけていた日記だ。中学高校大学時代をすべて網羅している。
去年、台本を書く時に、参考にするため読み返したが、はっきり言って他人が読んで面白いものではない。読まれる前提で書かれていないから符丁も多い。捨てなかったのは、それを自分が存在した証みたいに思っていたからだろう。そんなはずはないのに。
しかし、長いこと捨てられなかったこいつを捨てられたら、心理的にとても大きな変化があるような気がする。そういうことを決して出来なかったのが、これまでの自分だった。取っておいた日記は、脱ぎ捨てられない古い皮の象徴だったのだ。

とはいえ、手書き日記を捨ててしまったら、忘れてしまった人々のことを思い出す記録を失うことになる。二度と思い出すことができないかもしれない。
だが、同じように自分も誰かに忘れられているのだ。生きていると過去はどんどん増えていく。すべてを覚えていられるはずはない。

日記を捨てよう。問題は、いつ、どうやって捨てるかだ。火をつけて燃やしたいが、場所がない。昔だったら川原で焚火をしながら燃やせたかもしれない。今それをやると通報される。平成は、街からたき火の火がなくなり、劇場の立ち見と通路座布団席がなくなった時代だ。どちらも消防が絡んでいる。

昼、なか卯の鴨そば、コンビニ焼きおにぎり、フライドチキン食べる。

午後、眠気に襲われる。肩甲骨ストレッチをしようとして体を屈めたら、お腹が膨らんでいて、飲んだ麦茶が音を立てた。水分取りすぎなのかもしれない。

夕方、中野坂上へ。平田屋宝仙寺店で、前の仕事仲間と飲む。コンドウくん、昨年入籍し、生活拠点を田無に移したとのこと。めでたい。
親の介護の話や、仕事の無駄についての話を聞く。さいきん、時間が流れるのが早くなったという話もする。
魚の平田屋でしか出していなかったにぎり寿司がメニューに加わっていた。鮪、えんがわ、あなご、ほたて、いくら、鯵、サーモン、どれも美味しかった。

10時半に店を出る。東中野まで歩き、そこから自転車を停めている高円寺へ。11時過ぎ帰宅。
部屋は散らかっていたが、日記を捨てることができたら、他のものを捨てるのも簡単になるだろう。そう思うと気が楽になった。

1時半就寝。