秋葉原通り魔事件から2日が過ぎた。
内田樹さんがブログに、事件に関する記事を書いていた。
それを読むと、とても<わかった>ような気がしてくる。
同時に後ろめたさも感じる。
内田樹さんは考えることを生業としている人だから、今回の事件に関する記事はライフワークの太い幹に生えた新しい枝だ。
ワンクリックで記事を読む自分はその枝を見て、自分の幹から生えたように錯覚しているのではないか。
かといって自分の頭で考えると、当たり前のようなことしか思いつかない。
刺されたら痛いだろうな、とか。
刺された人は痛かったろうな、とか。
刺された人の友達や恋人は、自分が刺されたみたいに感じたかもしれないな、とか。
痛みで語り始めると、憎悪の種が自分の中で芽吹くのを感じる。
もしも近しい人が目の前で刺されるのを見たら?
さらに偶然目の前に金属バットが落ちていたら?
何も考えずにバットを拾い、相手に振り下ろすだろう。
<バットを他人様の脳天に振り下ろすような自分>
無意識に追いやられている、日常生活において出番のない自分だ。
相手の脳天にバットをめり込ませる瞬間、そんなことをする自分対してこう思うだろう。
(お前は誰だ?)
無意識に追いやられている自分は、家にたとえると下水管のようなものかもしれない。
どの家にも必ずあり、それがないと家は機能しないが、人はそれを意識することを極力避けている。
下水管のことをリアルに考えながらメシを食う人間はいない。
だがもし下水管が詰まり部屋が汚水にまみれたりすると、掃除をした後でもしばらく人は下水管の存在を意識するようになる。
壁の向こうに床の下に、今も汚水が流れている。
前はそんなこと意識せずに暮らしていけたのに、もはや意識せずにはいられない。
新聞やテレビが<心の闇>と定義するものは、下水管に近いのではないかと思う。
今の時代が生んだものではない。
昔からどんな人間にも備わっていたものに過ぎない。
…
ここから、結論らしきものへたどり着こうとすればするほど、
(そんなことをしてどうなる)
という心の声がする。
どうすればいいのかわからなくなっている。
落ち込んだりしているわけではない。
ただ、真剣に当惑している。
日常のことを書く。
朝、注文していたチェストが届いた。
畳部屋に置く。
高さが130センチ以上あるが、そのくらいあった方が空間を無駄にしない気もする。
夕方稽古。
クラップ稽古など。
立ち稽古をする。
いつまでも遊んで、役の幅を延々と広げて行きたいが、そういうわけにはいかない。
いずれ、どれにするのか選択を迫られる。
飄々としていて、落ち着いていて、時々落ち着きを失い、さらになにかを守っている。
これらを表面に出しつつ、内面ではまだ他に大きく変化する情動があるんじゃないかと思う。
守ろうとしているものはなんだろう。
主人と家意外に、もっと秘めたるものがあるんじゃないだろうか。
それを見つけ出すことが、今月の稽古における目標だ。