背負えない重さ

レイ・ブラッドベリが亡くなった。
『ウは宇宙船のウ』に収録されている「霜と炎」という作品を覚えている。
短命種族の話。
たしか、この作品を元にして台本を書いたことが、学生時代にあった。
うまくいかなかったけれども。

SFを熱心に読んでいた頃、ブラッドベリは物足りない作家だった。
期待するほどSFっぽくなかったからだと思う。
今の方がむしろ、素直に文章を楽しみながら読めるんじゃないかと思う。

夕方、鍋横で稽古。
横森さんの誕生日ということで、役者がひとり一品ずつちょっとしたプレゼントを持ち寄ることになった。
数百円のものである。
稽古場に横森さんが入って来る時に部屋を真っ暗にしておき、ハッピーバースデーを歌って出迎える。

今回の現場では、誕生日の役者に、必ずこうしたサプライズを仕掛けている。
こうなると、サプライズは必ずあるものだという認識ができる。
案外、稽古後に普通に「おめでとう」と言われるのが、一番嬉しいかもしれない。

全体のシーンをざっと流す。
何かの災害を思わせるシーンがあり、何であるかは明示していないのだが、見る人は昨年の震災を連想するだろう。
そのシーンを自分は、台風のつもりで演じていた。
震災のつもりで演じると、違ったものになってしまうような気がしていたのだ。

記憶に残る災害は、演技で表現しうるかという問題だと思う。
その重さを演技で背負えるかという問いに対し、どういう態度を表明するかということだ。
重さを背負うことに葛藤があるのは当たり前だ
問題はそれが個人の内面レベルで、芝居が出来た出来ないの軸におさまってしまうことだと思う。
重さを背負い、真剣な顔をして、必死で演技をして、それで済む問題じゃないからこそ、何か別の表現方法に転換しなければならないと思う。
たとえ見る側が震災を連想するのだとしても、やる側の問題として。
そのバランスが難しい。

なぜか、ピカソの「ゲルニカ」を思い出した。

11時前帰宅。
昨日作ったポテトサラダ食べる。
マリネされたタマネギが非常に美味い。