何もしないことを

夕方まで、何もしないということをした。
頭を空っぽにしたかった。
何もしないことをするといっても、やってみるとなかなか難しく、たとえば横になっているだけで成立するわけではない。
目が覚めた状態で横になっていると、生命力が雑念を呼び寄せ、脳を占拠する。

それにも関わらず、一度真剣に、何もしないことをしたほうがいいような気がしていた。
10月まで、色々無理をしてきたし、11月になっても仕事が忙しかった。
気がつかないところで神経がすり減っている。
そういうのが、いつまたトラブルを招き寄せるかわからない。

今朝は9時前に起きたのだが、そのまま横になっていた。
カーテンを開けて寝るのが最近の習慣で、外の明るい光が身体を自然に目覚めさせる。
だから、横になっていても眠気は起きない。
むしろ、寝ていいんだろうかと不安になる。

一度のまどろみを経て、12時前に目覚める。
腹は空いていなかったので昼飯は食べず、半ば意地になり、そのまま横になっていた。
身体の疲れは完全にとれていたけど、精神のさらに奥の、魂の疲れみたいなものは、日常の枠に収まる睡眠では癒されないのではないか。
そんなことを思いながら、そのまま横になっていた。

色々なことが思い浮かんだ。
昔のことや、最近のこと。
来年のことや、十数年後のことなど。
昔のことを思い出すのは得意だが、感傷のスイッチが入らないように気をつけないと、現在が煤けたもののように感じてくる。
過去は決して素晴らしいことばかりじゃなかった。
それが<現在>だった時、決して最高とは感じていなかった。
それにも関わらず、愛しい記憶として、自分の中に残っている。
スライドショーのように、いつでも再生できる。

人は、死ぬ寸前に、脳内に蓄えられていた麻薬物質が一気に放出され、死の苦しみから解き放たれるという説がある。
猛獣に食べられて死んだ人間が、死の間際に「痛くなくなってきた」とつぶやいたという話もあるが、麻薬物質の恩寵かもしれない。
麻薬物質がもたらす幻はなんだろう?
そのことを、前回公演『走馬燈』を書いた時に考えていた。

人はひょっとすると、死んだ時に、おのれの積み重ねていた過去に解き放たれるのではないだろうか?
自分の人生を、永遠に繰り返すのではないだろうか?
そこは、肉体が存在しない観念の世界だから、時間という概念も存在しない。
カート・ヴォネガット『スローターハウス5』と同じだ。
ビリー・ピルグリムの如く、時間に解き放たれる。
死の瞬間、誕生のシーンへ。
少年の場面から、中年の場面へ。

3時を過ぎた。
さすがに、横になっていることが苦痛になってきた。
何かをしたいという欲求が、心の底からわき上がってきた。
それでも、あえてぎりぎりまで何もせず、ただただ横になり、天井の白い壁を眺めていた。

5時過ぎ、着替えて家を出る。
神楽坂まで行き、そこから江戸川橋まで歩く。
途中、「フクラ家」で、トンテキセット食べる。
朝から何も食べていなかったせいか、食べた途端に身体がポカポカした。

絵空箱へ。
初めて行くスペース。
森さんが出演する、インプロのステージを見る。
インプロを見るのは、2年前の夏以来。

会社を舞台にした群唱の如きシーンからはじまり、所々即興性を思わせるやりとりがあったが、台本がなければ成立しないセリフもあり、判断に迷いつつ全編を観劇した。
インプロの概念やルールを、自分は人伝にしか聞いていないので、論じる言葉は持たないけれど、一度本格的に体験してみるのも悪くないかなと、森さんを見ながら思った。

芹川、渡辺さん、見に来ていた。
森さんに挨拶してから、三人で江戸川橋の居酒屋へ飲みに行く。

渡辺さん、知り合いの芝居を見に行くのは、一年に一人一本と決めているらしい。
4本5本と出ている知人がいたとしても、そのうち1本しか行かないとのこと。
今年2本見てしまったら、
「来年分の一本を使ってしまったな、みたいな」
らしい。

芹川、10時半に帰り、渡辺さんとその後1時間ほど飲む。
色々、意見など聞く。

神楽坂まで歩き、終電ひとつ前の電車に乗る。
12時半帰宅。

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