10時半起き。
喉が渇いていた。
コーラ、マカロニサラダ、フランクフルトで昼飯。
腹の底から笑いたくなったので、今田耕司のトーク番組をひたすら見た。
「やりすぎコージー」中心。
東野幸治と喋くるうちにどんどん話が脱線して長引くのを楽しんだ。
区の放送が流れる5時になっても外は明るかった。
まだまだ寒いが、冬は終わろうとしている。
いつの間にか過ぎてしまったが、2月5日は自分にとって特別な日だ。
28年前のこの日、手書きの日記をつけ始めたのだ。
その辺にあったノートに数行、メモのように書き、14年続いた。
書き始めた頃は、はっきりいって子供で、自己満足だらけの文を書き散らしていた。
読んだマンガのページ数、友達の文句、面白かったテレビ番組、遊んだゲームのことばかりだった。
手書き日記を続けられたのは、机に向かってノートに書いていれば、勉強しているように見えたからだ。
とにかく勉強がイヤだった。
代わりに日記を書いた。
成績は落ちたが読書の習慣がついた。
感想を日記に書けることがひとつのモチベーションになったからだろう。
読書は、最終的に成績浮上のきっかけにもなった。
結論からいうと、あの時もしも日記ではなく勉強を選んでいたら、受験に失敗していただろう。
勉強しなくて本当に良かった。
このブログは今年で15年目を迎えた。
いつの間にか手書き日記時代の長さを超えてしまった。
手書き時代と現在の違いは、人に読まれることを前提にしているかどうかだ。
だがそれは建前。
人に読まれることを意識せず、自分のペースとスタイルを守らないと、日記である意味はなかろう、と思う。
WEBで日記を始めた最初の頃は、読み手という存在をいささか過剰に意識していた。
意識しないはずはないのだ。
日記を書くという行為に、他者が読むという要素は、それまでなかったのだから。
だが14年以上続けていると、最初の頃の気負いも新鮮に感じる。
現在、閲覧している人に呼びかけるような文体で書くことは、ほとんどない。
別のブログ「マグネシウム不足」ではやっているけれども、あれは日記じゃない。
mixi日記では、また違った感覚で書くし。
最近全然書いていないけど。
マグネシウムリボンも、今年で18年目を迎えた。
「何周年記念」
みたいな公演を、これまで一回もやったことがない。
このブログと同じく、続けなきゃという強い意志があって続けている気はしないが、続けてこられている。
マラソンにたとえると、急ごうと思って走るランナーは早々に脱落する。
一定のペースを維持するべく平常心を保つことの方が大事だ。
同じことの繰り返しを、飽きずにどう繰り返していくか。
繰り返しの果てにある深みを、どう味わうか。
一週間七日間をひとサイクルと考えれば、人生がまさにそうだ。
そう。人生はつまらない。
そして、つまらないから面白くしようとすると、よりいっそうつまらなさが際だつ。
つまらないんじゃなくて、普通なんだと思う。
そうすれば時々面白さがやってくる。
スーパーマリオのキノコのように。
一定期間、大きくなったり、無敵になったりすれば、それでいい。
「やりすぎコージー」ばかり見て、お腹が痛くなった。
自分が面白いと思うものをひと目気にせず思い切り見て腹筋が痛くなるほど笑った、そんな休日。