過去にライダーキック

遊歩道の桜のつぼみが膨らみかけていた。
今週中に咲き始めるだろう。
再来週の終わりから稽古が始まる。
その頃には散り始めているだろう。

二十代の頃は花見をほとんどしなかった。
夜のバイトが多かったせいもある。

バイク便をやっていた頃。
人形町への配達を終え、浜町公園の近くを歩いていたら、サラリーマンやOLが花見の場所取りをしていた。
その光景がひどく羨ましかった。
なぜ羨ましかったんだろう?

煮詰まっていたからかもしれない。
当時のバイク便はかつての勢いを失いつつあった。
給料は歩合制。
働いた時間ではなく、こなした本数に比例する。
東京の道に精通し、地図を見なくても大体のところまで行けるようになっても、仕事は減る一方で、新人の頃と給料が変わらなかった。

なぜバイク便に固執していたんだろう?

同僚のライダーに、一日中バイクに乗っても飽きない人がいた。
その人はレースのライセンスを持っていて、休みの日にもバイクに乗っていた。
趣味と実益を兼ねた仕事だったのだ。

だが俺はそこまでバイクが好きではなかった。
休みの日になってまで、バイクでどこかに行くことを考えるのは、億劫だった。
(電車で行きたい)
そう思っていた。

バイク便を始めたのは、マグネシウムリボン旗揚げと時期が重なる。
それまでやっていた市場の荷下ろし仕事を辞め、がっつり稼げる仕事はないかと探すうちに、バイク便に行き当たったのだった。

ところが働き始めて10日後に交通事故。
止まっているワゴン車に追突。
埼玉の戸田橋だった。
ジーンズが破け、肘をすりむいた。
バイクが衝撃の多くを吸収してくれたので、それ以上の怪我はなかった。
「無事で良かったですよ」
事務所の人は言ってくれた。

大変なのはそれからだった。
バイクは修理に出したが、その間バイクを借りて仕事をしないといけない。
歩合50パーセントが、40パーセントに減る。
レンタル料だ。
1万円だったのが8000円になるようなものだ。
これは痛かった。

事故を起こしたのは8月の終わり。
9月から借りたバイクで仕事をした。
やがてマグネシウムの旗揚げ公演の稽古が始まった。
稽古の日は早めに仕事を上がるため、5時台の仕事で「これがラストで」とオペレーターに伝えていた。

運良く稽古場に近いところで終わるとは限らなかった。
大田区の糀谷で終わり、そこから小金井に戻っても、8時を過ぎていることもあった。
「稽古になんないです」
出演者に言われた。

10月になると仕事を週二回に抑え、あとの平日は稽古に集中した。
仕事の日は夜遅くまで走った。
稼がないといけなかった。

6時を過ぎると割り増し30パーセント。
9時を過ぎると50パーセントだった。
「割り増し何本やったら終わるっていう風に区切りをつけるといいよ」
先輩ライダーは言っていた。

10月は週二回だったので、月に12万ほどしか稼げなかった。
11月の前半にマグの初回公演があった。
その期間、仕事は休んだ。
後半は毎日仕事をした。
翌月12月は、がっつり稼ごうと覚悟して仕事に臨んだ。
防寒アイテムを揃える金がなく、夜が辛かった。

もっと辛かったのは、給料が月末締めの翌月末払いだったことだ。
一生懸命走っても、給料が出るのは1月の末。
それまで生活が楽にならない。

ライダーの稼ぎランキングみたいなものがあった
すごい人は月に60万くらい稼いでいた。
歩合50パーセントだから、売上は120万だ。

そのくらい稼げれば楽になれると思い、頑張って走った。
12月、1月、マグ公演を挟んで、5月、6月、7月。

だが月収が25万を超えることは、最後まで一度もなかった。

月収25万といっても、税金は引かれていない。
とっぱらいだ。
そこから、仕事で使用するPHS、ポケベル、ガソリン、バイク用品などが必要経費としてかかる。
確定申告もしないといけない。

PHSは月に15000円くらいかかった。
ガソリンも同じくらい。これで月3万。
一日200キロくらい走るので、タイヤは半年でつるつるになった。
オイルも季節の変わり目ごとに交換しないといけない。
そのうちプラグがおかしくなる。
バッテリーもおかしくなる。
ラジエーターもおかしくなる。
都度、交換や修理にお金がかかる。

要するに、自営業だったのだ。
独立事業主だ。

稼ぐためには、知恵を絞るか腹をくくるか、どちらかがないといけなかった。
そのどちらも、俺にはできなかっただけの話だ。

仕事を始めた一年目は、まだ景気が良かった。
二年目に入ってから少しして、雲行きが怪しくなった。
本社から委託された事務所に所属していたが、生き残るために歩合を下げざるを得なくなった。
50パーセントが45パーセント。
そして朝一番の待機場所が新宿から三田に。
遠くなった分、朝早く起きなければいけない。

「今の時期を乗り越えれば、仕事ばんばん入るから」

その言葉を信じたわけではなかったが、仕事は続けることにした。

だが、歩合が下がると決まって、ライダーが次々と辞めていった。
研修をしてくれた先輩や、芝居を見に来てくれた同僚も。

事態は徐々に悪くなっていった。
翌年7月は、月にフル出勤して、稼ぎが16万だった。
PHSとガソリン代を引いて13万。
拘束時間で割って、時給に換算したら、五百円台だった。

(やってられっか!)

待機時間の長さにイヤになり、ユニフォームを脱いで、どこかの河原で寝っ転がっていたこともある。

そんなある日、同僚が事故を起こした。
首都高八重洲線のトンネル内だった。

バイク便ライダーの事故は、他のライダーに秘密にされる。
動揺して運転に影響するからだ。

だがその同僚の事故は、仕事が減っていることのストレスや、事務所の方針とライダー達の対立など、さまざまな要素を背景にしていた。
誰それが社長と大げんかした、そのあおりで誰それが辞めた、みんなで抗議に行った、などなど、事務所全体がきな臭い雰囲気に包まれるようになった。

開かれた緊急ミーティングは険悪な雰囲気だった。
俺も、入社して2年経っていて、最初の頃の知り合いはほとんどいなかった。
結論は出ず、対立ばかり深まるミーティングを終え、
(もうここにいても仕方ない)
そう思った。
翌月、事務所を辞めた。

次の仕事を決める前にマグの公演があった。
終わって残ったのは借金だった。
日々の生活はパチンコで稼ぎ、家に籠もってプレイステーションをやっていた。
人の芝居を見に行くにも交通費がなく、乗りたくもないバイクに乗った。

「塚もっちゃんは絶対合ってないと思ってたけどな」

辞めてから、元・先輩ライダーに言われたことがある。
実際、自分に合った仕事だと思ってやっていたことは、一度もなかったかもしれない。

なのに、2年以上も続けていたのは、なぜだったんだろう?
わからない。
記憶をほじくり返しても、辛い、キツイ、寒い、冷たい、怖い、しんどい、そんなのばかりだ。

期間限定のしんどい経験。
若いうちにしておく、買ってでもしておく苦労。
そのひとつだったのだろうと、今は思う。
どうせきついバイトなら、とことんきつい方が、あとあとネタになる。

悪い記憶ばかりじゃない。
先輩ライダーはユニークな人が多く、話を聞いているのが楽しかった。
仕事中はみんな、都内のあちこちに散っているが、どこかの路上ですれ違う時もあった。
そういう時は、親指を立てたりして、合図を送り合った。
同僚ライダーは皆、仲が良かった。
時々、事務所近くのスナックで飲んだりした。
そこは社長のお母さんがやっている店だった。
会社の忘年会や親睦会もそこだった。
同僚や先輩は芝居も見に来てくれた。

楽しかった。

最近、バイク便のライダーを見ることが少なくなった。
ネットインフラが整備され、かつてはMOやCD-Rに焼いて、ライダーに配達してもらっていたデータは、ネット経由で送信できるようになった。
それでも需要がある。
医療現場や、印刷関係。
データではなく、そのものでないといけないという業種。

今、やってくれと言われたら、できるだろうか?
その前に、バイク、乗れるだろうか?

でも、なんだか最近、無性にバイクに乗りたい。
バイクは、俺を乗せてくれるだろうか?

昼夜、簡略化を考えつつ、仕事は終了。
6時にあがり、買い物をして帰宅。

カレー豆腐で夕食。

昨日絞った濁り酒を飲んでみた。
砂糖を加えたため、強めに仕上がっていた。
甘さはない。

タッパー二つ分の酒粕があったので、米を3合炊き、今度は麹を使わず酒粕だけで仕込んでみた。
どういう味になるやら。