自分にとって台本は?

9時半過ぎにジョギング。
五日市街道、神明通り、和田堀公園を走る。

台本書きをする。
『粗忽重ね』の書き直し。

午後3時に家を出て、自転車で西荻へ。
4時から、ギャラリーがらんで理保さんの舞台観劇。

イチゴ畑で働く三人の女性の話だった。
三人にはいわくがあるらしく、AさんBさんCさんと名乗っている。
畑の持ち主はやもめで、無農薬のイチゴを薬栽している。
畑にはもう一人、サラリーマンふうの男が出入りしていて、彼は女たちの素性に疑いを抱いている。
女たちの正体は元教師で、横領を働いて目下逃走中らしい。
ABCひとりひとりが、残りのふたりに負い目を持つ。
本名をばらしたり、農薬を散布したり、横領した金をホストにつぎ込んでいたり。
しっかりしたように見える順に、負い目の破壊力は強い。
どの負い目も男に関わったものだった。
本当は、彼女らを満たすと同時に渇仰させる何かは、男そのものではなく別のところにあるのだろう。
だか、男という存在に象徴させるままの展開になっていたが故に、芝居に入り込みやすく、本の緻密さを堪能できた。
《別の何か》を表現するには、1時間では確かに足りないかも。

終演後、理保さんに挨拶し、西荻のモスバーガーへ移動し、『粗忽重ね』の続きを書いた。

セブンイレブンで印刷をし、7時に西荻北の稽古場へ。
百合香さん、声が出なくなってしまい、今日はお休み。

『粗忽』は終わりが見えてきたが、『虻一万匹』は停滞中。

自分にとって芝居の台本とは一体何なのか。
昔の台本で稽古しているせいか、そんなことをやたらに考えている。

マグで稽古していると、役の性格は演者によって作り替えられ、それによって新しく台詞が付け加わっていき、最終的な形になる。
つまりその役者が演じる前提の台本になる。

逆に言えば、その人以外には演じられないテキストを、ゴールとして目指してきたのではないか。
同じ台詞を様々な役者が演じることで生まれる差分を、台詞を変えることで埋めるのは、ひょっとすると楽な道なのではあるまいか。

10時半帰宅。
「前略おふくろ様」第6話見る。
田中絹代が登場。
サブちゃんとかすみちゃんのでーとが、任侠映画のオールナイトを見て、喫茶店でお茶をするというものだった。
実に70年代っぽくていい。