笑いで失うもののこと

10時過ぎにジョギング。
青梅街道、南阿佐ヶ谷から、路地を和田堀公園まで南下。
ファミマでコロッケを買って帰る。
最近、ファミマの《ファミコロ》は、かなりスルドイお総菜なんじゃないかと思っている。

朝飯にコロッケサンドを作って食べる。

1時半に家を出て、知人が出演する舞台を観劇に行く。

ナチの将校とユダヤ人の娘が恋に落ちるという内容だった。
なぜユダヤ人とゲットーを扱うのか、しかも、ごく普通のコメディにするのかがわからなかった。

フジヤマを背景にしたヒロシマの町を舞台に、ゲイシャガールとアメリカ人捕虜が恋に落ちる。
彼は、原爆が投下される情報を知り、8月6日以前に彼女とその家族をつれて、オキナワに脱走しようとする。
途中で特高警察や憲兵の邪魔が入るコメディ。

原発職員が、東日本大震災被災者の女性と恋に落ちる。
放射能の測定値が急激に上昇したことを知った彼は、彼女とその家族を連れて、安全な町に移住しようとする。
途中で東電幹部やマスコミの邪魔が入るコメディ。

これらの芝居が、何の変哲もないコメディとしてドイツやイスラエルの劇団で上演され、観客が大笑いしていたとしても、同じように笑える日本人はほとんどいないだろう。

終演後に挨拶をしたが、カンパニーも観客も屈託はなく、ごく普通の人達ばかりだった。
お客さんを楽しませるために努力し、お客さんもまた作り手の熱を感じ取り、お互い満足しあう光景があった。
混乱した。一体これはどういうことだろう。

作り手よりむしろ、客席に対して危惧を抱いた。
皆が笑っているから笑っていいテーマなのだろうと同調し合う気配があった。
そこには、パリのテロ事件後Facebookのプロフィール画像をフランス国旗にし、熊本震災の後にネットで不謹慎狩りに狂奔するのと同じような同調力が働いていたかもしれない。

ゲットーをコメディ化することそのものが絶対にいけないとは思っていない。
だが、このテーマには、他国のいち民族に対する敬意が絶対に必要だと思う。
コメディにしてみました、というノリは、間違っていると思った。

ゲットーは笑いにしていいが、原爆や東日本大震災はしてはいけない。
その線引きをすることこそ、差別というのではないか。

帰りに買い物をし、6時過ぎ帰宅。
少し冷静になった頭で考える。

在日、部落、天皇、震災、それらをテーマにしたコメディがないのは、《いろいろなとこから文句がきそう》だからだ。
文句がきそうという理由からだけで規制するのは、理解でも配慮でもない。

あるいはお客さんに楽しんでもらえれば何をやってもいいという考えがあるのだろうか?
それは、考えることを、お客さん任せにするのと同じではないか。
楽しむことの価値は、そこまで高くはない。
例えば、このことで楽しまなくても、失うものは何もない。
だけど、このことで楽しんだら、沢山のものを失ってしまう。

客席に苦虫をかみつぶした顔をした人間が一人でも多くいた方が、作り手にとって良かったはずだと思う。
だから、そのうちの一人でいたい。
ヒステリックにならずに自分が出来ることの一つは、それだと思った。