ヴィヴィアン・マイヤーを探して

朝、阿佐ヶ谷から環七をジョギング。
朝飯に辛味大根のおろしを食べる。
口ほどにもない辛さだった。

昨日から、次回公演のためにノートをつけている。
マグ不足で色々思うところがあり、考えをまとめる必要を感じた。

自分の嗜好傾向をまず書き出してみた。
何を面白く思い、何をつまらなく感じるのか。好きな映画とそれを好きな理由。過去から現在への流れでどのように好みが変化したのかなど。

それから、役者として自分が出たいと思う芝居は、自分が書けない類のものが多い。
どう演じたらいいかわからないものほど出たいが、どう演じたらいいかわからないものは書けないのだ。

今日のノートには、舞台設定を色々書き出してみた。
やりたいことは決まっているのに、それにピッタリとはまる舞台設定を思いつけない。
が、とにかく書き出す。

シェルター
宇宙船
無人島
研究所
どこかの惑星
さいはての地にある施設
同窓会
トンネル工事現場
オーディション会場

こうやって自覚的になっていくと左脳優先になり、作るものが類型化していく恐れがある。
だから選択はしないで、候補で頭を満たしたままにしておく。

夕方実家へ。

「ヴィヴィアン・マイヤーを探して」観る。
美術の松本さんからお勧めとのメールをもらい、気にしていた。
公演が終わりやっと観ることができた。

ある学生がガレージセールで古いネガを見つけたことに始まる。
彼はそれを現像し、ネットにアップする。
すると、とてつもなく大きな反響があった。
その撮影者こそヴィヴィアン・マイヤーで、彼女はこの世を去っていた。
彼は遺品のネガをどんどん現像し、彼女の写真を多くの人に見てもらうよう展示活動を始める。

映画は、ヴィヴィアン・マイヤーとはどんな人物であったのかを関係者へのインタビューでたどるドキュメンタリーだった。
無名のまま世を去った彼女がなぜ写真を撮り続けたのか、答えを知る者はいなかった。
彼女は家政婦で友達は少なかった。
物を溜め込む癖があり、床が抜けそうになるほど新聞をとっておいたりした。

写真は、素人目にもわかるほど素晴らしかった。
だが、彼女は自分の写真の価値に気づいていたのか?
ネガは作品として保管したのではなく、ものをとっておく性癖の副産物に過ぎなかったのではないか?
疑問は多く残った。

松本さんは、オレが書いた「掃除屋」という芝居と、この作品とのつながりを思いメールしてくれたのだったが、映画を観ている間「掃除屋」のことは不思議と頭に浮かばなかった。
写真の印象がただただ強烈で、目に焼き付けるように見た。

写った人物はみんな、見ているオレと、まるで心が通じ合っているような顔をしている。
なのに、撮影した彼女は、誰とも心を通じなかったのだ。
人生のどのタイミングかで、彼女の中にあった何かが欠落し、写真は欠落を埋めるものだったのだろうか。
生前に写真が発表されても、注目されなかったかもしれない。

彼女の人生は幸せには見えなかったが、写真については、撮りたいものを撮りたいように最後まで撮り続けたのは間違いないだろう。
その一点に関して彼女はとてつもなくピュアだった。
あるいは、無自覚ゆえにそうなったか。
いずれにせよ、写真には混じりっけのない純粋さがあり、まるで、目そのもののように撮ったみたいで、惹きつけられずにはいられなかった。

11時過ぎ就寝。