映画「火花」観てきた

6時半起き。「武器よさらば」原本を少し読み返す。7時に朝飯。ご飯、豚汁、鯵、納豆、よごし。納豆によごしを入れたら美味しかった。

8時半から仕事。リリース用のチェック表を準備する。午前中はそれをやる。昼、サラダとサラダチキン食べる。午後、チェック表の続き。

夕方新宿へ。歌舞伎町の喜多方ラーメン坂内に入る。20年以上前からその場所にある。20年ぶりに入った。ワンタン麺を食べた。スープが薄かった。昔の方が旨かった。思い出補正ではない。チェーン店坂内の味としては昔と同じだ。でも昔の歌舞伎町店は他の店と違ったのだ。スープがとにかく旨かった。それが普通になっていた。20年経ち、店内レイアウトは大きく変わっていた。というか、本当にその場所にあったか記憶に自信がない。角のあたりだった気もする。

TOHOシネマにて「火花」観る。熱海の場面、祭りの映像がきれい。「カタキとったるわ」の出会いと飲み屋場面を経て時間経過。舞台は吉祥寺へ。物語の進行は原作とほぼ変わらない。先輩芸人神谷が居候している真樹登場。木村文乃が演じていた。声の感じ、メイクの薄さ、変顔、すべてかあまりにも自然で驚いた。そこから先は、役者の演技に注意して観た。セリフをちょっと噛んで言い直したり、滑舌が弱かったりする場面があった。でも、そのまま撮っていることで自然さが際立ち、圧倒的な臨場感が出ていた。出ている俳優の演技がすべて自然という映画は、そうそう見られるもんじゃない。意図して作った自然さではなく、個々の役者はみんな演技しようとしているのに自然になっているという類の自然さだ。泣かせの演出、泣かせの芝居はなかった。

だからこそ、クライマックスの漫才場面、本気で泣けた。徳永を演じる菅田くんは、泣かせる芝居はしていない。泣きたいほどの悲しみを本当に感じてそこにいた。板尾さんは、ただそれを撮っていたのだ。参った。降参。小説で読んだ時は、頭で理解し、なるほどねと冷めた感想を抱いた場面だったが、お見事としか言えない。そんな場面が他にもぎっしりある。

終わった時、後ろの席から「正直、見る前まで、なめてた」と話す男性客の声が聞こえた。

9時半過ぎ帰宅。Netflixでやった「火花」の映像を見てみる。よく出来ていた。映像としてはこちらの方が上だと思う。しかし、演技は演技だった。悪くない。でも、演技だなあ思った。うまい演技だったけど。

演技って、一体、何なんだ?

映画版「火花」にあったのは、ライブ感だった。今、そこで起きていることを見ている感じがした。クライマックスの漫才場面で、板尾監督はエキストラのお客さんたちに、つまんなかったら笑わなくていいし帰ってもいい、面白かったら笑ってもいいと、演出したらしい。その考え方が染みとおっていたから、ライブ感があったのか。自然な演技だと感じたものの正体は、それだったのか。

苦言というわけではないが、映像としては普通だった。でも、たくさんの場面が脳裏に焼きついた。何でもない場面が忘れられない。サラリーマンになった徳永が、一人で肉芽をつまんで飲んでいる場面とか、ぽっちゃりの子が缶ビールの中身を確認する場面とか、合コン場面で徳永の隣に座る女の子の芝居とか、日常の、生活の息吹が愛おしい。してやられたという感じ。参った。