寒さの話、そして、戦争と平和で一番の名シーン

6時に起きた。また性懲りもなく、起きて走ろうと、昨夜の自分は考えていたらしいのだ。起きる前、何か難しいパズルを解こうとしている夢を見ていた。起きて、パズルは消えた。外は薄暗かった。走れないと思った。クララが立てないレベルで走れなかった。起きた時は血圧が低くなっているからだ。30分すれば走れるかもしれない。30分後に目覚ましをかけた。横になった。また寝てしまい、起きても血圧は低いままだった。冬の朝に目覚ましをかけて、ちゃんと走れたことはほとんどない。もうやめよう。起き損だ。

8時に正式に起き、サンドイッチを食べた。天気予報によれば、今日の夜は、長崎は今日も雨であるように雨らしかった。おっと。昨日届かなかったフォームローラーの再配達を申し込んだ。7時から9時にした。7時台に届けば走りに行けるかもしれない。9時ギリギリだったら雨で無理かもしれない。賭けだ。もし9時ギリギリだったら、ソドムとゴモラの滅亡を振り返って見てしまったロトの妻のように、全身塩になってしまうだろう。

今日走らないと、このまま命尽きるまで休んでしまう気がする。先週末は、走らないと気持ちが落ち着かない状態になっていた。そこに持っていくのが大変なのだ。一度そうなれば、気負わなくても走れる。だが数日休むと、その良い波は終わってしまう。命尽きるまで。

昨日は走れない代わりに部屋を片付けた。地道に地味に片付けた。ハンガーに掛かっていた夏物をしまい、冬物を出した。セーターを五着も持っていた。そんなにいらないと思った。

一昨日、ガスファンヒーターを出した。すると、ホットカーペットやこたつを出そうという気持ちが弱まった。
去年はホットカーペットを出し、次にこたつを出した。ガスファンヒーターは最後に出した。
以前住んでいた部屋は、今と同じ広さのフローリングの部屋だったが、ガスファンヒーター一つで冬の暖房は十分だった。こたつやホットカーペットを買おうと思ったことは一度もなかった。
今あるガスファンヒーターはその頃から使っているものだ。3メートルのガスホースをキッチンのガス栓につないで使っている。三年前に越してきた時は短いホースしかなく、長いホースを買うという才覚もなかった。たぶん漢字は10個くらいしか知らず、九九も四の段までしかできなかったのだろう。冬の暖房はエアコンに頼った。翌年こたつを買ったのは、エアコンだけでは無理と思ったからだ。
それでも、初めて一人暮らしをした時に住んだ部屋よりも、寒さはマシだった。22才。武藤敬司がスキンヘッドになる前だった。部屋は風呂なし六畳。日当たりゼロ。冬は台所につららができた。最初に冬を過ごした時、800ワットの電気ストーブが唯一の暖房器具だった。もちろん寒かった。部屋にいる時は昼夜問わず、ストーブをつけっぱなしにしていた。翌年、1200ワットのセラミックヒーターを買ったが、寒さはさほど変わらなかった。住んでから四年目にガスストーブを買い、ようやく冬を快適に過ごせるようになった。
以来、暖房はガスに限ると思って生きてきた。選挙で投票する時も、暖房はガス派の候補者を選ぶようにしてきた。だが十年前、西荻のマンションに住んでいた頃は、部屋にガスが通っていなかったので、やむなく当時流行っていたハロゲンヒーターを買った。しかし、体の一部分は温まっても、部屋の温度は低いままだった。幸い、天井が低かったので、エアコンの暖房をつければ、それなりに暖かくなった。

寒い、にまつわる思い出はたくさんある。もっとも寒かったのは、ここ一番のギャグが、九回裏トリプルプレーのようにスベったあの時の思い出だが、思い出したくないので書きたくないし、時々不意に思い出して「ぐわああっ!」ってなる。突然「ぐわああっ!」ってオレが言っていたら、それは、そのギャグを思い出している時だ。

ぐわああっ!

大学一年の時、12月の下旬に芝居に出ることになった。本番が近づくと、泊まり込みのスタッフ作業がある。真冬に舞台装置のタタキをやったりするわけである。それはそれは寒かった。
真夜中か明け方に作業が終わると、合宿所に泊まることができた。合宿所は400メートルトラックのあるグラウンドの端にあった。タタキの作業場は合宿所の対角線上向かいにあった。タタキ場から合宿所に向かうには、グラウンドの敷地を回りこむようにして行かねばならなかった。
ある夜、作業を終え、生協の自販機でカップラーメンを買い、それで手を温めながら合宿所に向かっていた時、あまりにも寒かったので近道をしようと思った。それでグラウンドに入り、斜めに横切って最短距離を渡ろうした。ところが、グラウンドは風を遮るものが何もないので、トラックのど真ん中あたりは、猛烈な北風がびゅうびゅう吹きすさんでいた。あまりの寒さに「ぐわああっ!」と叫んだ。そして、叫び声でスベったギャグのことを思い出し、また「ぐわああっ!」と叫んだ。続けると、「ぐわああっ! ぐわああっ!」だった。その時近くにいた者は、暗闇からヌーのような声が聞こえ、さぞや怖かったことだろう。

合宿所の中に入ったものの、カップ麺はぬるくなっていた。それをすすり、さあ温かい寝床に入ろうと思い、布団を敷いて中に入った。布団は猛烈に冷たかった。布団に入るという動作をして「さむっ!」と言ったのは、後にも先にもその時だけだ。
合宿所には石油ファンヒーターがあった。しかし、燃料は、借りたサークルの自己負担だった。ヒーターの燃料は空っぽだった。部室に戻る勇気はなかった。布団の中で腹筋を何十回かやって、体温で温めようとしたけど、温まるまえに疲れてしまった。眠ると死ぬぞ的な眠気によって眠った。

だが、バイク便をやっていた頃は、それ以上に寒い体験をした。
28才の冬、十二月になったばかりのある日、昼過ぎから雨が降ってきた。その日は昼になっても気温が低く、雨は日か沈むとみぞれになった。手はかじかんで、伝票を書くと、字がのたくった。
最後の仕事がお台場への配達だった。そこから事務所のある東村山まで、伝票を提出するために戻らないといけなかった。だが、360度ぐるっと回るレインボーブリッジを渡る時、みぞれ混じりの冷たい風を全方向からまんべんなく受け、寒さのあまり絶叫した。「ぐわああっ!」スベりギャグを思い出してもう一回「ぐわああっ!」
芝浦に着いた時、もうこれ以上バイクには乗れんと思い、浜松町にバイクを止め、電車で事務所に帰った。そして、会社がライダー向けに売っていた防水性能ばっちりの合羽を買った。その合羽は性能が良く、ライダーを引退してからもしばらく使った。ロゴさえなければ今でも使いたいほどだ。
その頃は朝7時半に家を出て、仕事が7時くらいに終わると事務所に戻って伝票を提出し、10時半頃に帰宅していた。一日の拘束時間が15時間。歩合給が1万そこそこ。時給に換算すると666円だった。オーメン。

昼、山田屋でもやしそばをたべた。

夜、8時にフォームローラーが届いた。その後すぐ走りに行った。五日市街道から神明通りへ。西荻窪まで往復9キロ。
帰りにサミットでひき肉と豆腐を買い、麻婆豆腐を作って夕食に食べた。作り慣れしとこうと思った。

『戦争と平和』2巻読む。
スペランスキーの知遇をえたアンドレイ公爵は、都で忙しい人となる。用事があって、ロストフ家に一泊した時、彼は、生の喜びそのもののナターシャを見る。
ピエールは再び懶惰の生活に戻りつつあったが、恩師、ヨセフ・アレクセーエヴィチにもらったノートに日記をつけ、思索を深めていく。
ロストフ家はペテルブルグに居を移していた。ある日、皇帝も訪れる舞踏会に参加することになる。初めての本格的な舞踏会に、ナターシャは逆上し、母とソーニャの衣装をすべてコーディネートし、興奮しきって舞踏会に参加。
舞踏会には、ピエールとアンドレイ公爵も参加していた。ピエールはナターシャに、ダンスの相手を紹介するはずだったが、混んでいたり知人と話したりでちょいと遅れる。ナターシャは、自分が誰からもダンスを申し込まれないことや、ロストフ家が田舎者扱いされていることを恥ずかしく思ったりして、悲しんでいる。ピエールはアンドレイ公爵と話し、ナターシャに踊りを申し込むように言う。アンドレイ公爵は、とっても丁寧に、優しく紳士的に、ナターシャにダンスを申し込む。ナターシャの顔は、歓喜に光輝く。

ここが一番の名シーンだろう。映画にするなら、この舞踏会のシーンをキラッキラにして、ナターシャの挙措動作と表情のすべてを、美しく画面に収めないと。
このアンドレイ公爵の立ち振る舞いが、作者トルストイの分身としてのものだと思って読むと、ゾワゾワするほど面白い。おいナターシャ、彼は君を書いた作者トルストイの分身だよ。
そして、ナターシャが主要登場人物となるのはここからだと思う。

海外で数本、映画化・ドラマ化されているが、この場面だけを見比べてみたい。高校生の頃、オードリー・ヘップバーンがナターシャをやったバージョンを見たが、この場面は覚えていない。アンドレイ公爵がロストフ家に一泊する場面は覚えている。あと、ピエールは、違うだろうと思った。ヘンリー・フォンダ。マリアも、美人過ぎねいか? と思った。

寝る。

その前にBBCのドラマ版映像を見つけてしまった。ナターシャにダンスを申し込むアンドレイ公爵。たまんないね。

ピエールがイメージ通りなのがいい。この舞踏会シーンは、美しく撮るべきだと思っているのがわかるのがいい。見たくなったぞ。ぐわああっ!