オスのひよこと卵

朝、起きても頭がすっきりしなかった。怠くて眠かった。
最近、色々なことをやり過ぎている。一昨日、家に届いた荷物によって、「こと」がまたひとつ増えた。
脳が受ける刺激が増えて、知恵熱になってしまったのかもしれない。昨夜、ぐずぐず起きていたのはそのせいか。

縦のものを横にするミッションをひとまず済ませ、昨年から続いてきたプロジェクトもクローズしたので、今日は休むことにした。電話を入れてそのことを伝えた。

午前中は腱トレをした。時間が経つのを忘れ、気がつくと12時半になっていた。

午後1時を過ぎると、水耕栽培に日光が当たり始めた。外は暖かかった。

眠気が強くなってきたので、3時過ぎにベッドに入った。

夢を見た。古い知り合いのSさんが出てきた。美しい人だ。場所は喫茶店のようなところだった。彼女に、別の友人Mさんと自分の関係について話をする内容だった。

7時半まで寝ていた。たくさん寝たのに頭も体も軽くなっていなかった。

夜、ひよこの大量処分動画を見た。ベルトコンベアで運ばれてきたオスのひよこが、ゴミ粉砕機であっというまにミンチにされる映像だった。これに比べたら、恵方巻きの大量廃棄は大したことではないと思った。
衝撃度が高いため、見た人は養鶏システムに怒りをぶつけ、かえって視野狭窄に陥ってしまうかもしれない。だが、これと大差ないことが、およそ人間に「飼われる」すべての生き物に対して行われていると考えた方がいいだろう。

だからひよこの処分は「正しい」のか?
そう考える「べき」なのか?

生き物を見て、うまそうだと思って、捕まえて殺して食べることについて、何の文句もない。感謝の念すら、いらないと思う。そういうのを入れることの方が、生き物を存在させるこの世の理に対して僭越ではないか。

そして、ひよこのベルトコンベアには、「うまそう」がなかった。「捕まえて」も「殺す」もなかった。誰の手も汚さず、なるべく見ないで済むよう、生き物じゃない何かに変えていた。そのシステムが「効率的」に考えられていることが、実にいやだった。

これはいけない、という書き込みと、仕方ない、という書き込みがあった。仕方ないの理由は、オスは育てても肉として売れず、コストがかかることだった。殺害理由はコストか。

こういう映像は、見ないようにするべきか見るようにするべきか、どっちだろう。
見せるようにするべきではない。しかし、見せないようにするべきでもないと思った。
見て、何も感じない人はいないはずだ。

見た人全員が感じるのは、その死を知らずに食べてきたことについての後ろめたさだろう。卵を食べる時、ちゃんと殺してきたのだという自覚がなかったことについて、そして、殺しを誰かに委託することに慣れきってしまったことについて。

だから、ちゃんと殺す、という考え方に立てば、粉砕機でつぶすことは、死の苦痛を短くするという意味では、いいのかもしれない。水につけて窒息死させたり、足でふんづけていくよりは、苦しみが短くて済む。でも、そういう考え方で作られた機械には見えなかったんだよな。

卵を食べないようにしたところで、このことがなくならないのは確かだ。肉も同じだ。食べないようにしても、今日殺される牛や豚の命は救われない。殺される牛や豚の数が将来的に減ることにも意味はない。なぜなら、殺されるために生まれた牛や豚の、殺される確率は、100パーセントなのだから。

やはりおれはこれからも卵を食う。うまいうまいと言って食う。生まれてすぐすりつぶされて死ぬオスのひよこがいることを忘れずに食う。うまそうだと思って、殺して食べているのだと思いながら食うために、あの動画はあったのだと思いながら。