『浮雲』読む

6時起き。朝飯に一汁一菜食。人参ときゅうりのぬか漬けに味噌汁。

スタディサプリをやる。二週間ぶりだった。

トマトの根を調べる。予想していたよりも色がきれいだった。葉のない茎の部分が長くなりすぎているので、根を半分カットし、その分だけ茎を養液に沈めた。新しく養液に浸った部分から根が生えたら同じことをしていく予定。
虫はいなくなったようだ。葉は、新しい脇芽が生えてきているが、成長は遅い。

9時に家を出る。涼しかった。

昨日から二葉亭四迷『浮雲』を読んでいる。『雪国』と同じくこれも17歳の時に読んだものだ。
本を読む習慣をつけよう、なぜなら今のオレはバカだからだ、と、17歳の夏休みに思った。で、夏目漱石の『こころ』からスタートし、読み終わってからは家の近所にあった「ニコニコ堂」という本屋でテキトーに文庫本を買った。『浮雲』を買ったのはたぶんその時だと思う。言文一致体も坪内逍遙も全然知らず、ぱらっとめくって「なんか明治っぽいぞ」と思って買ったのだ。やはり17歳のオレはバカだったのだ。
案の定、読むのに大変苦労をした。そして、読み返すことなく数万年の時が流れた。
昨日ちょっと読んでみて、17歳の時よりは理解力が上がっていることを確認した。冒頭、ノッポと中背が会話をしながら歩いている。課長に刃向かうなんてバカだとかいう話。その後ノッポは自宅へ。女がいて、それもノッポ。ノッポの育ちの説明が入る。父は零落した武士だったが職を得て息子に教育をほどこす。しかし夭逝。母は苦労した云々。
物語の典型的なパターンだなあと思ったが、内容より、本邦初の言文一致体であることの方が重要なのだ。
それを17歳の、読書習慣がまだついていない小僧が読むのはいかがなものか……

17歳のオレにメッセージを送れるか試してみよう。

「国語の資料総覧に載っている作品を闇雲に読むのはやめろ。書かれた時代を意識しろ。1980年代、1900年代、1970年代、1910年代というふうに読み、互いの時代が出会ったところでそれまでの読書を振り返り、気になった本があったらその作家の作品をもう一冊読め。あと、読んだってどうせわからないのだから、三冊に一冊は好きな物を読め。どんな本でも、読み終わったら読んだことをノートに記録しろ。お前のIQでは感想を書くのに時間がかかるだろうから、印象に残った場面を箇条書きにするだけでいい。その上で何か書き足したくなった時に書くのが、いわゆる感想だ。無理して書くな。初めのうちは本の背表紙が本棚に並んでいくのを見るのが楽しいだろうし励みにもなるだろう。否定はしないが、本を買うことにこだわるな。図書館を活用しろ。そして、資料請求の方法を真っ先に覚えろ」

もし届いて、メッセージを聞き分けた17歳のオレがその通りにしたら、その後の人生は史実と違ったコースを辿ることになり、タイムパラドックスのために今のオレは消滅するか、あるいは突然、ショーン・Kみたいなジェントルマンに変貌するだろう。

昼、「香港園」で水餃子とレタスチャーハン。『浮雲』少し読む。育ての叔父叔母出てきた。

午後、テーブル構造の考察。エクセルシートに貼り付けて考える。

夕方、買い物せずまっすぐ帰宅。走りに行く。五日市街道を松庵まで往復。帰りにサミットで買い物。鯵フライ買う。
夕食に鯵フライ食べる。

ぬか床容器の新しいのを探す。今使っているのは3.5リットルで、長辺のサイズが23センチある。これが、きゅうりをつける時に微妙に短い。
長辺が26センチの容器を見つけた。全体的にほんのひと回り大きいが、漬けるにもかき混ぜるにもその方が楽だと思ったので注文した。
夏にぬかデビューし、暑い季節を無事乗り越えたので、とりあえずほっとしている。しかし漬ける野菜はなすときゅうりに定まりつつある。