選択肢が増えると選ばなくなる

6時10分起き。朝飯に、厚揚げとキムチ納豆食べる。

うだうだしてるよりはとっとと現場に向かおうと思い、7時25分に家を出た。45分で現場に着いた。

古井由吉『聖耳』読む。
連作短編の主人公は初老の男で、終戦時は小学校低学年くらい。でも空襲の記憶は残っている。
現在は、平成になったあたり。主人公は還暦間近。目の手術をしたり、頸椎の治療をしたりの入院歴がある。入院中や退院後、というか、日々の生活での折々、目にするものや耳にするもの、あるいは朝起きた時の夢うつつから、過去の記憶を思い出し、それを目の前に場面として空想しする。読者は、境目の曖昧な現在場面と空想場面を、個人の意識が一続きに感じているものとして読む。

午前中、データクレンジングの関数作りのため、テーブルに情報を入力する。

昼、揚げ出し豆腐とひじきサラダ食べる。その後、少し眠気を感じた。

午後、データクレンジング関数作りが煮詰まった。どの場所から呼び出すのか、レコード単位なのかそれとも全件なのか、どちらがいいか判断つかなかった。

夕方、新ツールのリリース日時がリスケになったと知らされる。今月末予定から来月に伸びた。でも、ツールよりも業務をする側にとって必要な延期だったかもしれないと思った。

夜、実家へ。
夕食にナボリタン食べる。

先週、時代劇専門チャンネルの申し込みを済ませたのだが、見られないと母が騒いでいたので、リモコンを使って見かたを教えた。しかし、チャンネルを増やしたところで、人間が一日にテレビを見られる時間は限られている。放送局が5つあり、放送時間が朝の5時から深夜の3時間までと仮定すると、22時間かける5は110時間。すべての番組を見るために、一日あたりそれだけかかる。24時間眠らずにテレビを見ても1日あたり86時間不足する。放送局が5つと仮定してさえそれなのだ。放送局が増えるほど不足時間も増えていく。

2000年代の初め頃、一年ほどケーブルテレビの契約をしていたことがあった。しかし、まったくムダだった。チャンネルが増えれば増えるほど、「見る時間のなさ」の感じ方が強くなっていった。

選択肢が増えるのは良いことばかりではない。かつて、アメリカのどこかの映画館で、コーラの他に別の飲み物をメニューに追加したら、トータルの売上がコーラだけの頃より下がったそうだ。

11時過ぎ、なぜだか知らないが急に麺類が食べたくなり、実家近所の壱角屋へ行き油そばを食べた。まずくはなかったが美味しくもなかった。店には、オレらいつも喋り足りないぜ、みたいな感じの若い衆二人組と、一人客が数名いた。メニューにはスタミナ丼もあったが、特に試したいとは思わなかった。

ボルドーの赤ワインを買って帰宅し、12時半就寝。