スマホで平日の時刻としてセットしたアラームが4時40分に鳴った。その音で起きた。今日は7時まで寝ていようと思ったので、消してまた寝た。
その後、6時40分過ぎに起きた。外が明るかったので寝過ごしたかと思い、恐る恐るアレクサに時刻を聞いたらその時間だった。起きるべ、と思い、起きて、ちょっとだけ書き作業をした。
内臓に休暇を与えるため、朝飯は食べず。
7時50分に家を出る。自転車で現場へ。42分で到着。そろそろウィンドブレーカーを着ていると暑さを感じるようになってきた。
午前中、暇。既存ツールのテストという作業があるにはあったが、もっと暇な時のためにとっておこうと思った。もっと暇、ってなんだろう。
11時前、腹が減ってきた。昨日喜多方ラーメンを食べてから初めて感じる空腹感だった。
昼飯も食べず。
カート・ヴォネガット『ヴォネガット大いに語る』読む。再読。作者の死後、文庫が再販されたもの。1960年代の講演やエッセイの記録。
ヴォネガットの小説は、本題に入る前のマクラが面白いのだが、本書はマクラのみを集めた作品集のごときものになっている。
午後、暇があるのにまかせて考えごとをした。
演劇を始めた時のことを思い出す。
中学生の頃から、自分に自信が持てないゆえの恥ずかしがり屋だったのだが、役をを演じる時、恥ずかしいと思うようなことをするほど、本来の自分から遠ざかるのを感じた。
(だっておれ、恥ずかしくてこんなことできないもん。だから、こんな恥ずかしいことを言ったりやったりしている今のおれは、おれが大っ嫌いなおれじゃないんだ。おれじゃないってことは、なんて素晴らしいんだろう)
こういう快楽が初舞台の時からあり、精神的にぴたりとはまってしまった。
本来の『おれ』が変わったわけではないのだが、生きづらさの原因となっていた恥ずかしさから脱することができたことが大きかった。
恥ずかしい、という感情は心地よいものではない。それは、消えたい、死にたい、という気持ちに直結している。誰だって死にたくはない。というより、死にたい気持ちになんてなりたくはない。
思春期から二十代にかけて、人生の様々な局面で引っ込み思案になったことがあったが、それはおそらく、恥ずかしさを恐れてのことだったろう。
恥ずかしいと思わなければ一番いいのだが、この感情は心のアレルギー反応のようなものだから、コントロールするのが容易ではない。かゆいもんはかゆいように、恥ずかしいもんは恥ずかしいのである。
となると、恥ずかしいという気持ちが、消えたい、死にたい、という気持ちに直結しないよう努力すればいい。
これは、やってみるとしんどい。恥ずかしさを感じている真っ最中に、目をそらさずそこに立ち続けないといけない。マゾヒズムに陥りかねない状況である。
また、恥ずかしさを受け入れるために、自分には恥ずかしさを感じる資格などないのだという自己否定を繰り返し、自分嫌いが高じていくこともある。自分が嫌いになることも、消えたい、死にたいにつながる道である。そっちも危険だ。
自分が出会ってきた健やかな人々には、恥ずかしいと思った時の心の動きに謙虚さと向上心があった。そういう他者と接することができたのは運が良かった。正しい恥ずかしがり方とは、恥ずかしいという感情に囚われず、素直に恥ずかしがることなのだと、その人たちを見て思った。
夕方、和田サービスセンターで借りた本を返す。
6時半帰宅。夕食はなし。
断食をするのは久しぶりだったが、午前中の空腹をやり過ごすと、あとは大したことはなかった。
夜、『シシリアの踊り』など練習する。し過ぎてもいけないと、一昨年くらいにアドバイスされたように気がする。どういう意味だろう。
ウィンドウズのアップデートをしたら、背景画像がなくなり、真っ黒画面にアイコンが浮かんだようになった。怖かったが、昔のPC画面はそもそも真っ暗だったなと思い直した。
111時半就寝。