オリンパス35IVaが出てきた

7時過ぎ起き。朝飯に、ご飯、めざし、切り干し大根、納豆、味噌汁、べったら漬け。

8時過ぎ、運送屋が来る。
部屋にあった電子ピアノを引き取ってもらった。修理され、格安修理品になって、音楽が好きなのにピアノが買えない子供のところに届くといいなあ。
そもそもなんでうちにあったかというと、28年前に伯母が亡くなった時、遺品整理で多少もめ事があり、うちの母が「このピアノはあたしがもらうから!」と強く宣言して引き取ったからだ。引き取ったって、あなた、弾かないでしょうに、と思った。実際、一度もちゃんと弾かれることなく28年ただ置きっぱなしになっていた。

うちの両親は、そうやって衝動的にものを手に入れても、衝動がおさまると見向きもしなくなる。父の場合、パソコン、製図机、英語教材、などがあったし、母の場合は、電子ピアノ、プラズマ医療器、その他健康関連機器がある。

父はパソコンを過去に三回買っている。最初はエプソンのPC98互換機、次はゲートウェイのWindows98機、最後がDellのノートPC。
このうち、98互換機とWin98機は、オレが使いまくったが、DellのPCはまったく触らなかった。これには理由があり、父は自分でそのマシンを買ったのに、オレが使いまくっていると、途中で、オレのために買った、みたいな言い方をするのだった。それがなんだか腹立たしかったので、触らないようにした。案の定、Dellのマシンは新品同様のままバッテリーだけがあがってしまった。

電子ピアノも同様で、オレが弾くようになると、母は、オレのためにそのピアノを引き取ったみたいな言い方をするだろう。それが分かっていたので、決して触らなかった。自分で「もらう」と言ってもらったのだから、責任をもって弾いてあげないといけない。

9時過ぎ、シーバス釣りへ。旧江戸川の雷公園のやや上流で始めた。満潮が終わり潮が下げ始めていた。釣り人はまったくいなかった。
まだバチ抜けも始まっていない真冬の昼間に釣れないことはわかっていたが、ルアーの動きを確認したり、流れに乗せるのを練習するために来た。

明るいので、ボトムを意識してルアーを投げた。当然のようにバイトはなかった。

ダイソーバイブの26グラムを投げている時に根掛かりしてしまったので、前回、前々回と夜の釣りで使ったルアー回収器を明るい中で使ってみた。
回収器がラインをロープウェーのように伝って水中に没すと、結んでいたタコ糸が下流に流されてたわんだ。そのため、回収器はそれ以上水中に沈んでいかなくなった。糸を送るとその分だけ糸は下流に流されて膨らむだけだった。
沈んだ分だけ糸を送っていくようにしないといけないと思ったので、タコ糸を巻いていったん回収器を引き上げた。すると、回収器のフックが片方外れていた。手元に寄せようとしたが、PEラインを張りすぎていたので、手の届くところまで引き寄せられなかった。
で、いったんPEラインを緩め、ロッドごとゴロタ石の上の方まで上がり、回収器を引き寄せようとした。その矢先に、回収器の糸を巻き取るホルダーを水際に落っことしてしまった。
水中に沈んだ.ホルダーからタコ糸が出ていて、PEラインに引っかけてある回収器に伸びていた。タコ糸に手が届けばいいのだが、ホルダーを落としてしまったため、回収器はPEラインの上を岸から離れたところまで滑りおりていた。
沈んだタコ糸を棒きれで引っ張りあげられないか試したが、流れが速いのと、棒きれがやわなのとで、うまくいかなかった。そのうち、糸を引っかけてはしくじる動きのため、ホルダーは見えなくなるまで深く沈んでしまった。
こうなったらルアーを回収し、ルアーごと回収器を巻き取るしかないと思った。ルアーで回収器を回収するなんて話が逆になってしまった。
しかし、ロッドをしゃくっても、ロッドの底部を叩いても、根掛かりはどうしようもなかった。
20分くらいそうやって奮闘した挙げ句、ついに諦め、またもリーダーの結び目でラインをカットした。時刻を見ると11時半だった。もういいや、と、捨て鉢な気持ちになり、納竿した。

『タックルベリー』へ行き、パチ抜け用のルアーを見た。品薄になっていた。新しいPEラインとリーダーを買った。

昼飯にカツ丼が食べたくなったので、東武ストアに寄った。しかしとんかつは売られていなかった。
新田のベルクスに行く。初めて入った。OKストアに似ていた。仮想敵とみなしているのかもしれない。
とんかつ、タマネギ、ポテトフライを買った。

12時過ぎ帰宅。
昼飯に、カツ丼、切り干し大根、味噌汁、べったら漬け。

自室のタンス整理をした。スカーフが山ほどあった。まとめて居間に持っていき、母に、いるものといらないものを選んでもらった。そのうち、母は自分でタンスの引き出し整理を始めた。

「こんなの出てきたわよ」
母が古いカメラを見つけた。オレが小学三年生の時まで、我が家の家族写真撮影に使われていた、オリンパスのカメラだった。

そのカメラ、もちろん昔から存在は知っていたが、子供の頃は製品名がわからなかった。で、インターネットよお前の出番じゃ、と思い、刻印をもとに検索した。

オリンパス35IVaというカメラだった。発売日は昭和28年。カメラケースに「MADE IN OCCUPIED JAPAN」とあった。占領日本製ということだ。占領ジャパンは昭和27年までだったので、間際の製造と考えればいい。

販売価格は14000円。昭和28年の14000円は消費者物価を基準に現在の価格に直すと10万円弱になる。発売時、母の年齢は15歳。自分用のカメラとして買ってもらうには高いし、母は別に写真が趣味だったわけじゃない。

「兄貴から借りたのよ」と母は言った。なるほど。おじさんだったら当時すでに務め人だし、給料で買っても不思議ではない。
母は当時あった蛇腹のカメラが好きではなく、オリンパスのそのカメラはカッコいいと思っていたらしい。で、おそらく成人してから借りて、そのままずっと自分で持っていたのだ。まあ、おじさんはきっとその後、もっといい一眼レフとか買っていただろうが。

オリンパス35は、シャッターが壊れていた。これは、オレが小学六年生の時から壊れていたのを知っている。ふと、直してくれるところはないかな、と思った。

中野の上高田にフィルムカメラを修理してくれるお店がある。そこのブログを検索すると、過去修理したカメラにオリンパス35が出てきた。いくらかかるかわからないが、もし修理できたら、この古いカメラで写真が撮ってみたいと思った。

カメラを預かることにした。

夕方、実家を出る。6時帰宅。
昼にカツ丼をしっかり食べていたので、夕食は焼き芋などで済ませる。

オレが持っているペンタックスのMEスーパーも、ついでにといっては何だが、修理をしてもらうことにした。こいつも90年代からシャッターが切れなくなり、ミラーが上がりっぱなしになっている。2000年の終わり頃に、MEスーパーの修理をやっているサイトを見て、自分でもやってみようと試したことがあったが、到底無理と諦めたのだった。

フィルム現像についても調べた。LAB-BOXという製品があり、こいつを使うと自宅で暗室なしにフィルム現像ができるらしい。となると、フィルムスキャナーがあれば、35ミリカメラの撮影は普通に「あり」だなあ。