物体化する言葉と舞台

9時半に起きた。寝すぎた。

10時からリモート本読み会に参加した。テキストはオスカー・ワイルド『サロメ』岩波文庫の福田恆存訳。
文庫は図書館で借りたのだが、旧字体の漢字が多く、さすがの儂もつっかえそうじゃわい、と思ったので、Kindle版を購入し、PCモニターで開きながら読んだ。

冒頭、対話ではなく、各々が勝手なことをただ言うようなセリフが続く。人物設定や世界観を言葉にしただけのようなセリフだ。しかし、どういうわけかその場面に違和感を覚えなかった。これらのセリフは、まるで舞台装置の一部であるかのように、舞台空間の空中に解き放つためにあるような気がしたからだ。福田恆存訳の、昔風の言い回しが、なおさらそう感じさせた。

すると演出する場合には、どの場所でどこに向かってそのセリフを言わせるのかを考えないといけないと思った。発せられた言葉が抑揚強弱に応じてフォントやサイズを変え、立体的な文字となって浮かぶとすれば、奥から手前に投げたり、真上に浮かばせたり、上手から下手、あるいは逆方向に飛ばしたりするようなイメージを浮かべる。そうすると役者の立ち位置は、舞台設定から導き出すのではなく、その言葉を発射する適切な位置、という考えで決めねばならん。そうやってミザンセーヌを決めると、客席からどのように映るだろう? たぶん、放たれる言葉の届き方が演出効果を出していれば、位置は気にならなくなるんじゃないか。同時に、言葉はその時初めて、見ている人の頭の中で、意味を持ったものとして根付くのではないか。

などなど、久々に古ぼけた演出用脳みそが起動した。

場面が進むにつれ、主要人物同士の対話になってきた。これも、言葉そのものより、言葉の物体的な質感が頭に浮かんだ。特にラストの方、ヨカナーンの首を何度も所望するサロメに対し、饒舌で跳ねのけ続けるエロドのセリフがそうだった。理性に訴える説得ではなく、言葉を大量に履くことで物体のような属性を持たせ、物量的な壁でサロメの意志が入ってこないよう防いでいるかのようだった。

そんなふうに戯曲を解釈したのは初めてだ。たぶん『サロメ』に限らず、ほかの戯曲にも応用できる考え方かもしれない。ギリシャ劇など特に。

昼、木曜に茹でた竹の子の姫皮部分を使ってたけのこご飯を炊いて食べた。他に、長なすのぬか漬け、洛陽食品のチルド焼売。

昨日一日干した竹の子をぬか床につけた。完全乾燥はしていないが、身はだいぶ小さくなっていた。昨年までは茹でたものをそのまま漬けていたので、ぬか漬け容器がいっぱいになってしまっていたが、一日干してから漬けると、二本分漬けてもスペースが余った。昨年は一週間漬けたが、今年はもう少し長く漬けて、古漬け気味にすることにした。

広島中日戦をラジコで聞く。
昨日よりもいい展開だった。岡林、石川のヒットの後、ビシエドが三遊間にタイムリーを放ち、中日が2点先制。先発の柳は7回まで130球投げて零封。昨日打たれたロドリゲスは8回をしっかり抑え、最後はマルティネスが締めた。中日連勝。貯金復活。

夜、AKIRAセーターの前身頃を編む。編み込み部分が終わった。糸の色を変える時に隣の糸とうまく絡ませないと編み目に隙間ができてしまう。一ヶ所見つけたので、裏のだらんと垂らした糸を切ってつないだ。

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