伯父の通夜へ

朝飯抜き。

午前中、マキューシオさんに依頼されていた作業ツール作りをし、「できました」とメールをした。

1時早退。西葛西へ。

1時半実家帰宅。昼飯に賞味期限切れのチャルメラを食べた。

喪服は実家に置いてあると思っていたが、母がタンスから出してきたものはサイズが違っていた。他のも、他のも、他のも、全部違っていた。父のだった。なぜそんなにたくさん喪服があるのやら。

最後に喪服を着たのは今年の5月。一周忌法要の時だ。その日は法要を終えてから実家に帰り、着替えて釣りに行ったので、喪服はそのまま実家にしまったはずだ。

場合によっては家に帰ってスーツを着て略礼装にしないといけないかもなと思いつつ、タンスの中を調べる。すると、上着のポケットに数珠が入った上着があった。数珠はオレのだった。つまり喪服もオレのだった。

4時まで母と雑談する。母、香典について文句を言う。昨年父が亡くなった時、誰それはいくらしかくれなかったなど。
「兄貴の通夜に行く前に、そういう話はやめろや」
とたしなめた。

4時、実家を出る。駅に向かって歩きながら、伯父さんについて覚えていることを母に聞く。
「戦争が終わって、下の三姉妹は祖母の親戚がいる富山の家に厄介になったんだけど、その家を見下ろす丘の上から、おにーちゃーん!って叫んだのよ」
伯父さんはその頃、一緒に住んでいなかったんでしょう?」
「うん。兄貴は札幌の親戚の家に下宿してた」
「なんで、おにーちゃーんって言ったんだろうね?」
「わかんないの。でも、それ覚えてる」

叫んだ理由がわからないからこそ、その記憶は本当のことなのだと思った。当時7歳か8歳だった母は本当にその時、そう叫んだのだろう。

南砂で妹と合流し、千代田線経由で小田急線に乗り換えた。通夜が行われる栗平に着いたのは5時半だった。駅で降りた直後、従姉妹から母のスマホに着信があった。通夜は6時からだったが、「おばちゃん、ちゃんと着けるかな」と心配になったようだ。

段差の急な階段を下り、坂を下った。会場のお寺には10分もかからずに着いた。入り口に、40年くらい会っていなかった従兄がおり、挨拶をしてくれた。お互い、「だれ?」という感じだった。

式場に入ると、母は「あにきー!」と呼びかけながら棺に向かって歩いた。そして、伯父の死に顔を見ながら、「辛かったね」「頑張ったね」「痩せちゃって」と声をかけながら泣いていた。従姉妹が母のそばにやってきて、「すごく元気だったのよ」と言った。従姉妹も涙声になっていた。

すぐに通夜が始まった。住職がお経を読む。祖母が亡くなった時に世話になったお寺さんの住職だった。もちろん代替わりしているが、読経の感じに聞き覚えがあった。

焼香を終えてから伯父の死に顔を見た。口が開いていた。棺には江田島海軍兵学校の、DVDかVHSのソフトが入っていた。従姉妹が母に、「パパと言えばこれ!」と言った。

明日の葬儀は8時からだと、式場の人に言われた。一瞬、ちょっと何言ってるかわかんないと思ったが、事実だった。理由は、火葬場のスケジュールによるものだった。8時に告別式を始めないと間に合わないそうなのだ。

母は「どうしよう」と迷いだした。葬儀に出席することは決めていたが、8時開始となると西葛西を6時には出ないといけない。今日はオレと妹が露払いでもするかのように式場まで案内できたが、一人でここまでこられるだろうか?

新百合ヶ丘のビジネスホテルに泊まればいいと妹が言い、電話をしてみた。しかし部屋はとれなかった。時刻は夜の7時を過ぎていた。その時間ではさすがに時間ギリギリで厳しいだろう。

「私が車で案内しようか」と妹は言った。母もその気になったが、朝8時に栗平に来るまではいいとして、帰りに都心方面に向かうのは渋滞必至となる。妹はそのことも気にかけているようだった。

しかし、取れそうにない宿のことを悩んでいる間に家に帰れてしまうだろうと思ったので、母に帰宅を促した。

従姉妹と従兄に挨拶し会場を出た。栗原の駅まで歩く途中、母は、明日は自分一人で来ると言った。

9時、西葛西へ。デニーズで夕食。

栗平への道中は、乗り換えあり段差あり坂ありと、普通の84歳にとっては難所であるはずだったが、母はこともなげにすいすい歩いていた。そのすごさについて母は無自覚だったので、それはすごいことなのだと伝えた。すると、若さを称えられたような気分になったらしく、喜んでいた。

10時実家帰宅。明日、7時半に栗平に着けるよう、西葛西から栗平までの乗り換えルートを紙に書き、母に渡した。

オリックスとヤクルトの日本シリーズは、逆転に次ぐ逆転ののち、オリックスが吉田のサヨナラホームランで勝利し、2勝2敗1分けのタイに持ち込んだ。