心の動きをモニターすると面倒くさいことになる

朝、ご飯、大根のぬか漬け、味噌汁。一汁一菜だった。

昼、今まで存在は知っていたが行ったことがなかった『夢の樹』という居酒屋で、ランチのカツ丼を食べた。感じの良い店で、値段も安く、ボリュームもあった。

午後、新監督からのメールを読み、イラッとした。内容は、以前オレに送ったメールについて、その後どうなっているかを問うものだった。

その件については、メールをもらった時に調べ、根本的に別の問題があるとわかり、バラモン氏に質問して解決し、新監督に伝えていた。そのことを彼に言うと、彼はびっくりした顔をして、聞いてませんというように首を振った。

で、またイライラした。

メールを読んでイラッとしたのはなぜなのかを考えてみる。

まず、リーダーがオレのすぐ近くにいるのに、オレに直接聞かず、新監督に「あの件どうなっている」と聞いたことに「モヤッ」とした。新監督はそれで焦り、大慌てでオレにメールを送ってきたわけだ。

次に、新監督が送ってきたメールがほとんどコピペで、よくわからなかったことに「モヤッ」とした。

メールの締めくくりに、「対応をお願いします」と結んであったことで、二つの「モヤッ」が結びついて、ひとつの「イラッ」になった。

だが、リーダーは別に、オレに言うべきことを新監督に言ったわけではない。単に、あることについて、新監督が答えられると判断して質問しただけだ。新監督も、自分が確かめるという言い方でリーダーに返事をしたはずだ。

なのに自分で確かめず、オレに丸投げしてきたと、オレの心は感じ、それで、モヤッ、イラッ、ムカッ、となった。

でもこれは、見たわけじゃないのだ。俺の心が、そう思いたがり、そう思っただけなのだ。そして、そう思った結果としての、モヤッ、イラッ、ムカッ、なのだ。

オレの心は、新監督がリーダーにハキハキ返事をしたにも関わらず、仕事そのものはオレに丸投げした、と思いたがっていた。

そう思うことで、俺の心はなぜ、モヤッ、とするのだろう。

想像上で新監督の対応を再生してみた。腰ぎんちゃくみたいだと思った。思ったとたん、イヤな気持ちになった。

オレの心は、誰かを(腰ぎんちゃくみたいだ)と思ったとたん、その人物に嫌悪感を覚えるようにできているらしい。

でも、これってフェアじゃない。第一、腰ぎんちゃくだと判断する基準が明確になっていない。

むしろ、嫌悪感が先にあって、それゆえに『腰ぎんちゃく』という定義を相手に当てはめている。

あらためてメールを読み返した。コピペだなあ、と思ってみた。
しかし、心は特にざわつかなかった。

どうやら、メールの内容自体は、特に心をざわつかせるものではないようだ。

しかし、心が先に『腰ぎんちゃく反応』を起こしていた場合、むかつきを強める効果はあるようだ。

オレの心はなぜ、『腰ぎんちゃく』的な存在を嫌うのだろう? 過去、そういう人物と関わったことはあったか?

あった。某センパイが何か言うたびに大げさに笑う奴がいた。そんなに笑うなよなー、と思っていた。でも、嫌うほどじゃなかった。

厄介なことに気づいた。新監督を腰ぎんちゃくと断じるのは、オレの承認欲求が関係しているのではないか?
(オレを介さず、自分だけ褒められるためにヨイショしやがって!)
なのか?
(そこはオレしか褒められちゃいけないポイントだぞ!)
なのか?

7年前のことを思い出した。オレが作ったツールをコピペして、自分が作ったツールみたいにして配布していた奴がいた。そいつに対して当時、怒りを覚えた。
コピーして配布するのは管理上アウトなので、同じことを今誰かにされても怒るだろうが、当時のオレの怒りには、理性的判断以外の負の感情もこもっていた。その感情を込めたまま相手に注意をすれば、相手はオレのダークな心理に影響され、ただ注意されただけよりも、気分をどんよりさせるだろう。

ここひと月ほど、ツール改修に集中しているが、これまでより、怒ったりムカついたりすることが増えている。だが、それはツールがオレを怒らせようとしているからだという考え方をもつことで、心理的バランスをとってきた。過去、そのツールを担当した人々が、みんな心を病んでしまったのは、ツールの構造に原因があるのではないかという考え方だ。

無茶苦茶な考え方だから、心底から信じているわけではないが、自分の心がどういう仕組みで動くのかを、改めて見直すきっかけになった。だから今日もこうやって、色々分析している。

こんなことをしたって、人は、ムカつく時にはムカつくだろう。でも、心がそうやって動くことをほったらかしにせず、いちいち分析していけば、心が動く方向を微調整するトレーニングになるかもしれない。

午後、分析とは別の次元で、モヤモヤイライラを抱えたまま、仕事を終える。

夜、岩下の新生姜をベーコンで巻いて焼き、それを肴にしてハイボールを飲んだ。

カート・ヴォネガット『チャンピオンたちの朝食』読了。
好きなヴォネガット作品ベスト3は『スラップスティック』『スローターハウス5』『タイタンの妖女』で、『チャンピオンたちの朝食』は、あまり読み返すことのない作品だった。

しかし、今回読み返してみて、色々考えさせられた。

この作品が書かれたのは、おそらく1960年代末から70年代の頭にかけてだろう。
前作『スローターハウス5』のヒットで作家としての成功を掴んではいたが、滅亡間近のビアフラ共和国をじかに見ることと、息子のマークが統合失調症を患うことの、二つの事件を経験している。
それらの出来事がヴォネガットに及ぼした影響を推し量ることができるのが、本作『チャンピオンたちの朝食』である。

前半は、暗い。しかし、終わりの方でヴォネガットは、「もう大丈夫だ」と、自分の言葉のごとく語っている。
この作品を書くことそのものが、ヴォネガットの救いになったということだろうか? あるいは気休め?
どちらにせよ、ヴォネガットが「大丈夫」になったのは、これを書いている時なのだ。その前は、「大丈夫」じゃなかったのかもしれない。