ナショナルシアターライブ『かもめ』見た

朝、急に左の鼻の奥がむずむずして、くしゃみが出た。寝ているときにそうなるのは珍しかった。

起きて風呂に入る。

朝飯にトースト。

自転車で中野へ。最近、南口改札前に、車椅子に座った年配の女性がいる。朝も夜も。彼女の素性と事情が気になる。

午前中、昨日の続き作業。別ツールの統合をする。

昼、『豚と脂』で中ラーメン。外に出るとくしゃみが出そうになった。鼻粘膜が腫れて痛かった。

ネットで鼻粘膜について調べる。アレルギーなどの場合、両方の鼻の穴が腫れるらしい。片方はなぜなのか。夜寝ている時、なにかゴミみたいなものを吸い込んだか。

トイレで鏡を見ると顔がむくんでいた。鼻粘膜炎症の影響だろう。

夕方、遠隔ミーティングに参加。今月中に新しいツールを作ることになった。

6時、日本橋のTOHOシネマズへ。ナショナルシアターライブ『かもめ』見る。

完全な素舞台で、ライトさえ天井の、舞台照明らしくない明かりのみだった。役者の衣装はカジュアルで、それぞれ椅子に座っている。場面に応じて椅子の配置を変える演出で、ほとんどの場面が座ったままの会話で作られていた。

いきなり、コースチャが自分の芝居を終わらせる場面から始まった。

ニーナは華奢、コースチャは若者らしい「こじらせ」が表に出ていた。トリゴーリンは若く、アルカージナ母さんもきれいだった。マーシャ、メドベージェンコ、といった役がそれぞれ個性的で、飽きなかった。シャムラーエフが、かなりツボだった。

アルカージナとコースチャが喧嘩する場面は、母が言い過ぎたあとにすぐ謝るところで、親子だなあとしみじみできた。ニーナとコースチャの再会も、悲痛が胸に迫ってくる場面になっていた。

一昨年、シアーシャ・ローナンの『かもめ』を見たとき、欧米人はかもめ慣れしてるなあと思ったが、今回も同じことを思った。演技も演出も自在。いすだけを使った演出も、配置が計算されていた。

2010年代あたりから、日本の小劇場演劇で、抽象化された美術や衣装をあまり見なくなってきた。小劇場の舞台は抽象化されていたほうが絶対に面白いと個人的には思うし、具体的なていの舞台美術でも、そこには必ず抽象化された要素があるのだ。抽象化するプロセスこそ、舞台を創る、ということなのではないか。

9時終演。演劇っていいなあ、と、強く思わせてくれる作品だった。

10時帰宅。

夕食に、食パンとハム食べる。

ヤマザキパン春のパンまつりのポイントシールをためる。桐谷さんの影響。

鼻粘膜炎症による熱っぽさ解消のため、頭痛薬を飲もうとして、家にあるのを調べたら、消費期限が8年過ぎたのと6年過ぎたのとがあったので、それらは捨て、去年ワクチン副反応対策に買ったものを飲んだ。

12時就寝。