父島最終日

朝5時過ぎ起き。外は明るくなっていた。

朝ご飯前の時間、父島の二見地区を散歩した。家の植え込みでバナナが実っているのには驚いた。

昨日、大神山公園を歩いている時、遊んでいる子供らがたくさんいるなあと思った。この島は人口に比して、子供の数が多いのではないのだろうか?

それはつまり、この島で子供を育てたいと思う大人が多い結果ということになるだろう。

7時、朝飯を食堂で食べたあと、食べ残しの魚の皮をちぎり、川にいる魚に投げ与えてみた。魚は、初めは反応しなかったが、何度か投げるうちにエサだとわかり、最後の方では争奪戦をするようになった。

その川は、雨が降った時は山から流れがあるが、ない時は海の水が上げ潮の時に入り込んでくるクリークのようなものだった。住んでいる魚は海の魚だろう。

部屋で、出かける支度をする。

今日はレンタサイクルで父島の南方面へ走ってみるつもりだった。もし天気が良ければついでにシュノーケリングもしてみようかと思っていた。

7時半の時点で、天気は曇りだった。天気予報を見ると、午前中は雨で、だんだん回復していくようだった。

8時過ぎ、リュックにシュノーケルのマスクと一眼レフを入れ、マリンシューズを履いて外に出る。しかし、外は雨が降りはじめていた。

雨の勢いが弱まるまで待つことにして、部屋に戻った。

9時40分過ぎ頃、外から雨音が聞こえなくなってきた。外に出ると雨はやんでいた。

三日前にレンタサイクルを借りた店で、電動式自転車を3時間借りた。

電動式自転車のバッテリーは、電源を入れて何の気なしに走っていると、残量がどんどん減っていくので、上り坂を走る時以外は電源をオフにして走った。

境浦海岸を通り過ぎ、扇浦海岸で自転車を止めた。再び雨が降り始めていた。

扇浦海岸は広めの海岸で、海水浴向けのビーチという感じだった。海岸は白砂で、人はいなかった。夏だったら問答無用で「ざぶーん」だろうが、雨が降っており、暑くもなかったので、しなかった。

自転車でさらに南へ走る。

コペペ海岸へ。ここは、行ってみたいと思っていた海岸だ。

釣浜よりは広いが、宮之浜よりは狭く、しかし小湊海岸と隣接しており、海沿いに泳いで移動できるようだった。

海岸にはカヤックのアクティビティ参加者が集まっていた。たぶん、どこかで出発し、コペペ海岸に上陸したのだろう。波打ち際でふざけている若者がいて、普通に海の中に入っていたから、水温が冷たいということはないようだった。

カヤックの面々が小湊海岸に向けて去ると、海岸にいるのは自分一人になった。

さて、どうする? 軽く泳いでみる?

とりあえす波打ち際まで歩いて行き、足首まで水につかってみた。ぬるくはないが、問題なく泳げるくらいの水温だ。

結局、やめた。シュノーケリングは一昨日、カンカン照りの下でたっぶりやれた。もっと、状況的に最高な時にやればいい。

ヤドカリがいた。初めはわからなかったが、巻き貝が『だるまさんが転んだ』をするみたいに、こちらの視線を感じたとたん動きを止めた気がしたので、つまんで持ち上げてみたら、中身が、間男みたいに隠れていた。

雨は、降ったりやんだりを続けながら、段々勢いを弱めていた。

時雨ダムにいってみようと思ったが、坂道が続きそうだったのと、トンネルを通り抜けるルートになっていたのでやめた。時刻は11時半になっていた。

これからのスケジュールを考える。

二見港まで戻り、水産センターで魚を見て、自転車を返し、買い物をし、宿に戻ってシャワーを浴びて、昼飯を食べ、2時にチェックアウトする。

となれば、そろそろ引き上げ時だった。

来た道を戻る。港が近づくにつれ、雨はやんできた。

道沿いにお地蔵様がいた。何かお供えをしようと思ったが、何も持っていなかったので、五円玉を一枚お供えした。

11時50分、水産センターに入る。小さい水族館で、短い時間に一通り見ることができた。ネムリブカ、アオウミガメ、アオリイカは外の水槽にいた。入口に入ってすぐのところにミズクラゲの水槽があった。ぐるっと回ると、根魚軍団の水槽があっだ。マダラハタらしき魚が水中に静止状態で浮いているのがおかしかった。

12時20分、自転車を返却し、B.I.T.C小笠原生協で、ポテトフライ、カップ焼きそば、ピーナッツ、ウイスキーポケット瓶を買った。

宿に戻りシャワーを浴び、買ってあったカップ麺とポテトフライを食べた。

荷造りを澄ませ、2時に部屋を出る。港への送迎車が来ていた。クルーズで知り合ったご夫妻がいた。二人は2週間滞在し、初めは母島、次に父島の別の宿、最後にオレが泊まった宿に移ったとのこと。おがさわら丸で定期的に観光客がやってくる関係で、一つの宿に長期間滞在することはできないらしい。

ご夫婦は60代を少し過ぎ、子供は独立し、仕事は引退している。まだ老い込んではおらず体力があり、今回小笠原に2週間滞在したというわけなのだ。羨ましいセミリタイヤ生活だなあと思った。

港でチケットを交換し、少し時間があったので、JAの販売所へ行き、トマトとミニトマトを買った。一昨日飲んだ時、トマトの盛り合わせを食べたのだが、どれも甘くて味が濃かったので、自分用の土産に買っておいた。トマトの品種は桃太郎だった。

乗船手続きをして船室に荷物を置き、6フロアのデッキに出た。デッキは乗客でいっぱいだった。船尾に近いところに入れるスペースがあったのでそこに陣取った。

2時半、出港の時間になり汽笛が鳴ると、見送りの和太鼓が鳴った。島の人々は「いってらっしゃい」と声をかけてくれた。

小学校低学年くらいの男の子たちが見送りに来ていた。船が港を出ると、彼らは船と併走するように港を走り始めた。デッキには、この男の子たちと関係があるのか不明だが、同じ年頃の女の子たちがいて、「いってきまーす」と声をそろえて叫んでいた。

男の子たちは港の端の、青灯台のところまで走ってきた。400メートルトラック一周くらいの距離はあると思うが、全力疾走していた。子供が、自動車などを気にすることなく、ひたすら全力で走ることができる環境は、素晴らしいと思う。

おがさわら丸が二見港を出るまで、クルーズ船が併走して見送りをしてくれた。壮観な眺めだった。そして、船はそれぞれ、あるポイントに着くとエンジンを停め、乗っていた人々のうち何人かが海にダイブした。その都度、デッキからは歓声が上がった。

クルーズ船のダイブがすべて終わると、最後まで併走してくる船は、海上保安庁の船だけになった。かなりの速度で併走していた。乗組員は二人いて、見送りの幕引きをするように、おがさわら丸に向かって敬礼すると、きれいなカーブを描いて反転し、港へ戻っていった。

劇的な見送りが終わると、気が抜けてしまった。天気は相変わらず曇っていた。

展望デッキのベンチに座り、インターネットが通じているうちにできることをスマホでやっていたが、途中で、天候が荒れているため展望デッキは6Fのみの解放にするという船内放送が流れた。ベンチから立ち上がると、確かに、風と揺れがひどくなっているのがわかった。

船内に戻り、4デッキの椅子に座り、買ってあったビールを飲んだ。ネットはまだ通じていたが、次第に接続状況が不安定になった。

ビールを飲み終えてから船室に戻った。『われら闇より天を見る』を読もうかと思ったが、揺れがかなり大きかったので、酔う以前に読書体勢が取りづらかった。しかたなく、夕食の時間まで横になり、録音してあった昔の『たまむすび』放送を聞いた。

7時過ぎに夕食を食べに4Fのレストランへ行ったが、行きの時と違い、値段の割にそそられなかったので、自販機コーナーでレンジご飯とカレーパンを買い、3Fのサロン南島でそれを食べた。

揺れは相変わらず大きかった。

船室に戻り、『たまむすび』録音の続きを聞いた。

横になって聞いているせいか、ウトウトしたり目覚めたりを繰り返していたが、いつの間にか消灯時刻の10時を過ぎて、部屋が薄暗くなっていた。

起きて、買っておいたウイスキーを、麦茶をチェイサー代わりにして少し飲んだ。揺れは、夕方頃と比べると、若干収まっていた。

酔いの気配をとらえたところで、イヤホンをつけずに横になり、目をつむった。