批判じゃなく憎しみだ

10時過ぎまで寝ていた。やる気不足は起きる気欠乏を引き起こしたらしい。

起きて、今日は節分の日だと思い出す。それならば恵方巻きを買いに行かないと。

その前にランニングだ。土曜日だし、今日あたり20キロくらい走っておかないと。

だが、昨夜の時点で大潮満潮時の有明海みたいに漲っていたやる気を、昨日の世界に置き忘れてしまった。昨日のオレは永久にやる気満々で、今朝のオレは永久にグダグダ。

午後、サミットで買い物。恵方巻きとビールを買っだ。年間エホマキ予算は上限4000円にしていたのだが、それだけ買うとさすがに美味しいうちに食い切れない恐れがあるので、中巻のツナマヨ、エビカツ、ねぎトロ、牛カルビと、太巻の和風巻きハーフを買った。2000円くらいだった。

夕方、ツナマヨとねぎトロを食べつつ、ビアーを飲んだ。自分が鬼になったような気分になった。

佐藤秀峰が、『海猿』映画化時に原作者として自分がどういう思いをしたのかについてNote に綴っていた。プロデューサーにつれられて主演俳優に挨拶しようとしたら「しゃべんなきゃダメ?」と言われ、イヤな奴だと思ったと書いてあり、かつ、映画は「クソ映画でした」とも書いてあった。

原作者の立場うんぬんではなく、原作を穢されたという思いを抱いているとしたら、怒るのは無理もない。だがその場合、「イヤな奴」「クソ映画」発言は、評価ではない。恨みつらみ憎しみをぶつけ、相手をひどい目にあわせる目的のものだ。それゆえに、我々の誰一人として、その発言に乗っかる権利はない。むじろ我々こそ、佐藤氏がその発言をするに至った事態を冷静に分析し得るはずだ。スティーブン・キングは、キューブリックが監督した『シャイニング』を、どう思っていたか、であり、我々はそこに乗っかれたか、ということだ。

『セクシー田中さん』作者の芦原妃名子が自殺した原因は、テレビ局でも脚本家でも出版社でもなく、SNSで非難を書きまくった我々だ。そして我々は、芦原氏を死に追いやった犯人捜しをするため、我々が芦原氏を殺したのと同じ凶器である言葉の弾丸を、めくらめっぽうに撃ちまくっている。

でもたぶんその弾丸は、実は何の力もないのだと思う。人を傷つけるように書かれた言葉こそ、本質的には何の力もない暇つぶしで、放っておけば次の暇つぶしにぶつけられるだけだ。たぶん、暇つぶしでそういうことをする人々は、やめられなくなっているのだ。そして、やめられなくなっていることに気づけなくなっているのだ。

何かをやめられなくなった状態は、自身を催眠状態に陥りやすくする。炎上の種を見つけては、日々、心の中を、「許せん!」という言葉で満たして生きている。

地獄だろう。

だからこそ芦名氏には、SNSに飛び交う言葉なんか、発泡スチロールの玉をゴムで弾き飛ばした程度のもので、うざいけど放っておけば消えるもんだと割り切り、2ヶ月くらいエゴサーチなんかせず、海外旅行などしてリフレッシュしてもらいたかった。訴えたことは間違ってないが、いったん発言するへきことはしたので、今すぐ反応を見届けるのではなく、2ヶ月後に再開すればいいと思って。

覚悟の上で発言したのかもしれないし、それゆえ、見届ける義務があると思ったのかもしれない。しかし、言いっぱなしになっても良かったと思う。ご苦労さん、ああいう言葉はしみ通るのに時間がかかるから、反応見るのは2ヶ月後にしてしばらくその件は忘れて、暖かいところ行ってゆっくりしてきなよと、誰かが言ってあげられれば良かった。

脚本を担当した相沢友子氏は、最後の二話を芦名氏が書くことになった経緯を指して、「苦い経験」だったとインスタに書いたらしい。世界中のシナリオライターの誰だって、この事態になったらそう思うだろう。芦名氏が死んで、今、一番心配なのは、相沢さんだ。彼女こそ、2ヶ月くらい日本を飛び出して、エゴサーチなんかせず悠々と休んでしまった方がいい。それを『逃げ』とか言う奴はたぶんバチが当たる。

いや、たぶんもう、当たっている。日々、心の中を「許せん!」で満たして。

死ぬことはなかった。それに尽きる。芦名氏の犯した間違いはそれだけだ。そして、そのことをきっかけに、彼女を聖化してはいけないし、原作の脚色をタブーにしてもいけない。『シャイニング』だけじゃない。『魔女の宅急便』だって原作と全然違う。『椿三十郎』だって、山本周五郎の原作とは似ても似つかない。

脚色、という芸術もある。その視点があれば、『原作軽視』という『非国民』臭のする問答無用ワードではなく、『脚色はどうであったのか』と評価する視点で議論ができる。今回の問題は、脚色も一つの創作であるという意識が、関係者全員になかったからではないか。ある意味、芦名氏にさえも。

映画『デビルマン』を、永井豪はどう思ったかが知りたい。