8時起き。朝飯に、ご飯、鮭、納豆、白菜漬け。
11時まで二度寝する。
昼、母が町中華の『かねだ』に行きたがっていたので、ランニングしつつ一緒に昼飯を食べに行くことにした。母は自転車。
1時に実家を出る。葛西中央通りを北へ。母が漕ぐ自転車の後ろについて走った。キロ6分前後のペースだった。
今井街道を左折してから、昔住んでいたエリアに入ったので、時々止まっては、あそこに何があったなどの話をした。
1時半に『かねだ』に着いた。店の前に自転車が沢山止まっていた。2階の座敷に案内された。広間が二人あり、襖で隔てられていた。片方の広間には団体客が入っていて、宴会をやっているようだった。
オムライス、もやしそば、金田スタイルを頼んだ。金田スカイルはサラダで、二人分くらいのボリュームがあった。母はもやしそばを食べたが、量が多すぎることに戸惑っていた。オムライスは細かく刻まれた具が混ぜ込まれたチキンライスが誠に美味かった。
2時過ぎに店を出た。道を真南に歩き、今井街道を渡った。そのあたりは2歳から4歳まで住んでいた町だった。実家でランニングする時にたまに通るので、実はそれほど久しぶりという感じはしない。
住んでいた部屋の大家さん宅がまだあった。表札を見ると、名字がそのままだった。大家さんの息子さんは10歳ほど年上で、よく遊んでもらったのだが、三十代で急逝した。となると、今その家には誰が住んでいるのか気になった。
大家さんの家の隙間から、昔住んでいた建物があるように見えたが、場所は同じでも建物は違うはずだ。引っ越してから3年後、小学一年生の夏に再訪した時、すでになかった。
一之江境川親水公園を渡り、中学校沿いの小道を通って一之江通りに出た。そのルートは、当時住んでいた家から葛西駅に向かうバス停に出るルートだった。当時の境川はドブ川だったし、橋を渡ってから一之江通りに出る時は、坂を上がったような記憶がある。たぶん当時はもう少し低い位置に川沿いの道があったのだろう。
一之江通りに出てから、実家まで走った。店を出てからしばらく歩いていたので体が冷えていた。途中のライフでトイレを借り、母には先に帰ってもらった。
一之江通りに出たところから実家までの距離はたったの2.8キロだった。4歳の頃はとてつもなく遠い町のように思っていたが、キロ数を数値で見ると、あらためて近さに驚いた。
『パティスリー・アン・フォンド・ソレイユ』に寄る。ケーキが一つも売られていなかった。すべて売り切れたらしい。マドレーヌを買って実家帰宅。母も直前にケーキを買いに寄ったらしかった。コーヒーを入れ、マドレーヌを食べた。
5時過ぎに実家を出る。
マックでポテナゲの大を買い、いなげやでビール、ジャガイモ、玉ねぎ、かぼちゃ、マカロニを買って帰宅。
Googleフォトが無料だった時代にアップロードした写真を整理した。かなりの量がある。
引っ越しで部屋を掃除した時の写真が、住んだ部屋ごとにあった。何もなくがらんとした部屋を写した写真を見ると、胸に痛みが走った。部屋ごとにある思い出がフラッシュバックして、感情がかき乱されることによる痛みだった。それらの写真を撮った時も、同じ痛みを感じていたと思う。
ただ、引っ越しというのは、新しい部屋の片付けに追われるため、エモさによる日常麻痺に陥る時間はそれほど長くない。
しかし、小金井のアパートには九年間も住んでいた。行き詰まり、のたうちまわる日々だった。それだけに、引っ越す時は感無量だった。西荻窪に引っ越し、掃除して鍵を返すため、元の部屋に戻ってきた時、呆然としたのを覚えている。
次に住んだ部屋には四年間住んでいた。Google ストリートビューで過去日付にすると、オレの洗濯物が沢山映っていた。
その次の部屋には六年間住んでいた。引っ越し屋が荷物を運び出すのに20分とかからず、あっという間に部屋はがらんとした。
そして気がついた。今の部屋に住んで今年で丸十年になる。小金井の部屋よりも長く住んでいる。わりと平穏無事に暮らしているので、引っ越す予定はないが、これだけ長く住んでいると、引っ越す時に押し寄せてくる思い出の量はやはり相当なものになるのだろうか?
フラッシュバックの映像にトマトがたくさん映っていることは間違いないだろう。
コメント