『キャッチャー・イン・ザ・ライ』までの30年

 朝起きるととても憂鬱な気分になっていた。
 心配事があるとか、つらい仕事をしに行かなくてはいけないわけでもないのに、気分だけ純粋に憂鬱だった。
 こういうことは時々ある。
 しいて理由をあげるなら、朝だからだ。

 不思議なことに布団から出て着替えた途端、憂鬱な気分は霧消する。
 憂鬱な気分は布団にいるときだけ持続している。

 では早く起きて動けばいい。
 もしくは寝てしまえばいい。
 不幸にも後者を選択してしまった時は、少なくとも朝とはいえない時刻になるまで眠ってしまう。

 今日は運良く起きることができた。
 布団から出て立ち上がった途端に、それまでの憂鬱な気分は消えた。
 もちろんすがすがしい気分になったわけじゃない。
 普通の状態になっただけだ。

 布団の中で感じるこの憂鬱さは、一体なにが原因なのだろう。
 目を覚ました時、布団の中は体温でもっとも居心地の良い状態に温まっている。
 掛け布団と毛布は体の一部分のように密着し、それでいて外界の刺激すべてから自分を守っているようだ。
 さなぎに似ている。
 ということは、起きるとは羽化することのようなものだ。

 昆虫はさなぎから羽化するプロセスで、細胞の配置をダイナミックに変える。
 脳細胞もそうだ。
 さなぎとしてではなく、羽化した成虫として生きられるよう、システムが入れ替わる。
 つまり、羽化した昆虫にはさなぎ時代の記憶はまったくない。
 もともと記憶という概念があるのかどうかはともかく。

 そういえば『空想科学読本』という本にこんなことが書いてあった。
 イナズマンという特撮ものについて。
 彼は悪と戦う時、まずサナギマンになり、超力招来してからイナズマンに変身する。
 サナギマンはさなぎだからあまり強くないという設定だ。
 ところがその本の分析によると、さなぎから成虫になるプロセスで記憶がまっさらに更新されるため、イナズマンになった途端、ここはどこなのか、敵は誰なのか、そもそも自分は一体誰なのかわからなくなるはずだという。

 サナギマンは大きな技は出せず、馬鹿力のみでなんとか戦っている。
 でも敵は強いぞ。ピンチだサナギマン!
 よし。そろそろイナズマンになれそうだ。
 超力招来!
 変身。
 ここはどこ?
 君たちはどうして僕を倒そうとするの?
 僕って何?

 三田誠広の代表作みたいなことになってしまったが、それでもイナズマンは僕らのために戦い続ける。
 石ノ森正太郎のためかもしれない。
 ちなみに石ノ森正太郎には清楚可憐な姉がいて、晩年はスチールウールみたいな髪型だった正太郎とは似ても似つかない美人で、着物が似合う。
 その姉が来るとトキワ荘の面々は浮き足立ったという。

 それとこれとは関係ないが、人が生産をし人生を構築するのは、起きた生活においてだ。
 もしも布団の中の記憶が鮮烈に残っていたら、日常生活の殺伐さが際立ち過ぎてしまう。
 だから人間は起きた瞬間、布団の中での記憶を速やかに消し去るようにできているのだろう。 

 夕方実家へ。
 誰もいなかったので、マーボー春雨と中華丼を適当に作って食べた。

 『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読み始める。
 白水社の屋台骨を支えつづけたベストセラー、サリンジャーの『ライ麦畑をつかまえて』を、村上春樹が翻訳したもの。
 『ライ麦畑』の方は野崎孝氏の翻訳。
 名訳かどうかはともかく、読みやすい訳ではなかったと思う。
 その理由は、文体が主人公の少年の一人語りであることだと思う。

 野崎さんはおそらく、この少年にそれほど感情移入していなかったのではないだろうか。
 あるいは、傷つきやすく自棄になっている少年の心理を、理解ある大人の視点で分析したにとどまっていたのではないだろうか。
 『キャッチャー・イン・ザ・ライ』に目を通してまず初めに思ったのは、そういったことだった。

 『ライ麦畑』が翻訳刊行されたのは1972年だという。
 <シラケ世代>という言葉が生まれるさらに前だ。
 東大安田講堂陥落が1969年、赤軍のあさま山荘事件1972年。
 この時代、反抗的若者という言葉から連想される行動は、そうした左翼的、政治的なものだったから、刊行当時この作品は理解されがたかったんじゃないだろうか。

 実際、この本が世間で有名になったのは、ジョンレノンが暗殺された時に犯人のチャップマンが所持していたからだ。
 ジョンレノンの暗殺は1980年。
 シラケ世代がちょうど学校を卒業した頃になる。

 そういえば村上春樹がデビューしたのも1979年で、大体同じ頃だ。
 世間が村上春樹の小説を受け入れていくのと同じように『ライ麦畑』も版を重ねていく。

 そして四半世紀が経った。
 村上作品に登場する人物の口調や考え方を、我々はまったく違和感を抱くことなく理解することができる。
 もちろん理解することイコール受け入れることではないのだが、少なくとも理解不能のレッテルを貼ることはない。
 そして『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の主人公は、まさに村上春樹的なモノローグ文体で描写されている。
 今までどこかいびつだった主人公像が急にクリアになり、気づかなかった微妙な心の揺れがわかるようになった。

 一つだけ欠点があるとすれば、ずばり、タイトルだろう。
 『キャッチャー・イン・ザ・ライ』では、なんのことだかわからない。
 その点『ライ麦畑でつかまえて』というタイトルは、本当にすばらしい。
 翻訳のタイトルが原作を凌駕している。

 夜、部屋にこもって手帳の整理をする。
 見開き月間ダイアリーの間に白紙のメモをはさむ方式は、かなり使いやすい。
 が、メモをする際、どこに書くべきかまようことがある。
 台本のネタはどこに書けばいいのか。
 制作面のアイディアはどこに。
 個人的な覚書は?
 読んだ本のまとめは?
 そうしたこともきちんと考えておかないと、また1年の手帳生活が無駄になる。

 試行錯誤の結果、次のようにした。
 まず全体を、ダイアリー、白紙ノート、罫線ノートに三分割する。
 前半部分のダイアリーは月間見開きで、間にはスケジュール補助用の白紙ノートを必要なだけはさんでいく。
 真ん中部分の白紙ノートは、マインドマップなど考えをまとめるために使う。
 後半部分の罫線ノートは、活字専用。
 ポストイットはこの罫線ノート部分の索引に使い、台本ネタの区別に使う。

 大体こんな感じ。
 手帳も、真剣に考えてみるとなかなか面白いもので、携帯端末にはない良さがある。
 システム手帳制作ソフトは販売されているようで、穴あけパンチとセットで買う人が多いらしい。
 しかし、考えてみたら年に1回しか作らないわけだから、年賀状作成ソフトと同じく1年のうち11ヶ月はハードディスクの重荷になるだけかもしれない。