母島行って『街とその不確かな壁』読んで父島に戻った

6時起き。

6時45分に宿の食堂へ。早めに朝飯をいただく。

7時、ははじま丸の発着所へ。チケットを買い、7時半の便で母島に向かった。

昨日、マリンシューズと間違えてランニングシューズを洗ってしまったので、それを船のデッキで乾かしつつ、『街とその不確かな壁』を読む。

船から見ると、母島は島の上部が雲に覆われていた。海側は快晴とまではいかなかったが太陽は出ていた。

昨日飲んだGさんからLINEが届いた。父島に来る時、船で知り合った男性と再会し、彼と飲むことになったので、今夜も一緒にどうかという内容だった。Gさんがどういう人と知り合いになっていくのか興味があったので、行きますと返答した。

9時半、母島到着。

今回の旅では、免許証を忘れるという痛恨のミスを犯していたため、母島の移動手段はレンタサイクルしかなかった。しかし、お店のサイトを調べると、現在レンタサイクル用の自転車はメンテナンス中のため、貸出を中止しているとのことだった。

だがしかし、もともと母島に渡ってからは、走ってみるつもりでいた。そのためにランニングシューズを持ってきたのだ。

なので、船を降りてすぐリュックからランニング用リュックを出し、中に財布とスマホだけ入れ、都道の最南端に向けて走り始めた。

港を出るといきなり、峠走並みの上り坂があった。昨日けっこう飲んだこともあり、体は重かった。

ほぼほぼ歩きというスピードでその上り坂をクリアすると、しばらくは穏やかな上りが続いた。

その後、長めの下り坂があった。マニラ坂という標識が立っていた。今まで上ってきた分を一気に下るような坂だった。

(おいおい、これ、帰りに上ってくるのか?)

一昨日、宮之浜へ下りた時と同じようなことを思った。

その後、マニラ坂で下りた分をそのまま取り返すような、きつい勾配の上り坂があった。しかし、最初の上り坂から2キロ以上走っていたため、体がこなれてきており、ややまともに走れるようになっていた。

すこし下って、またしんどい坂を上ると、都道最南端、南崎ロータリーが目の前に現れた。ガイドさんとツアー客の団体さんがいた。

港からそこまではだいたい5キロだった。しかし、平坦な道ではなくかなりきつめのアップダウンがあったので、普段の感覚で走る5キロよりは当然、体力の消耗は激しかった。港へ戻れないほど消耗しているわけではなかったが、当初思い描いていたように、港に戻ったら今度は北へ片道5キロくらい走るという計画は、諦めたほうがいいだろうと、この時判断した。途中でへたって帰りの船に乗れなかったらえらいことになる。

都道最南端の先には、さらに南に向かって、登山道的遊歩道があったが、時間的にパスし、来た道を戻ることにした。

すぐに、万年青浜という標識が目に入った。来る時も気がついていたが、その時は標識をチラ見しただけで走りすぎていたのだ。

止まって、浜に下りる入り口を探すと、パーキングの横におなじみの、登山道的遊歩道階段があった。

下りてみた。

万年青浜は、幅50メートルもないくらいのコンパクトなビーチだった。砂利浜で小さい湾になっているため、シュノーケルに最適な感じだった。

マスクやマリンシューズを持って来ていれば良かったなあと思ったが、シュノーケルができるという可能性を考えていなかった。空は晴れていて暑くなっていたし、20分ほどでいいから海に入れたら最高だったろう。

いっそ、ランニングの格好で入ってみようかと思った。きれい過ぎる水だし、昨日も飛び込みをした時、普通に目をあけていられたし、どうせ汗まみれだし。

でもやめておいた。それは欲張り過ぎだ。今日オレが選んだのは、母島をランニングすることだ。

遊歩道の脇には、あちこちにノネコ捕獲用の罠が仕掛けられていた。

遊歩道を上って都道に戻り、ランニングを再開した。

行きのキツイ上り坂は、帰りの下り坂になる。行きの方が上り坂が多かったので、帰りは楽だった。

それでも、行きの時に長い下り坂だったマニラ坂を上るのはきつかった。ヤビツ峠ランニングでいえば、蓑毛バス亭手前の坂以上のキツさだった。

坂の終わりで徒歩トラベラーを追い抜くと、眼下に港が見下ろせた。あとは下りだけだぜ、とホッとしたが、走りはじめて最初に上って下った坂が残っていた。それを上り下りすると、農協と漁協の販売所前に出た。そこでゴール。往復10キロ。

農協販売所で、島とうがらしや島レモン系の調味料を買った。一万円札で支払ったので小銭ができた。それまで、万札しか持ってなかったので、自販機で飲み物が買えない状態だった。

正午近くになっていた。母島には数軒だが飲食店がある。せっかく来たのだから、どれかの店に入ってみようと思い、漁協と農協の間の道を入っていった。

ははじま丸が入港したタイミングのためか、お弁当を売っている店や、寿司屋、他国籍料理店などが営業中だった。

普通の定食が食べられる『めぐろ』という店に入った。メニューはチキンカツ系が多く、カレー、カツ丼、定食などがあった。

チキンカツ定食を頼んだ。値段は1000円以上したが、それは当たり前。カツのボリュームが結構あり、味も良かった。

女性の観光客が入ってきて、「予約したWです」と、店の人に伝えた。その後、彼女の友人らしい人が入ってきた。

友人らしいその人は、島に住んでいる人のようだった。もしかすると、さっき買い物をした農協の人じゃないかと思ったが、見間違いかもしれない。島の暮らしや子供のことを、Wさんに話していた。

会計をして店を出る。12時を過ぎていた。船の出発時間は2時半だった。

ロース記念館を覗き、母島の歴史を簡単に学んだ。

一眼レフを取りにいくため、いったん港に戻る途中、清見ケ丘鍾乳洞へ行ってみた。しかし、入り口が見つからなかったので、入るのを断念した。

ははじま丸待合室に置いていた荷物から一眼レフを取りだした。港にコインロッカーはないが、受付に言うと荷物を300円で預かってくれるらしい。ただし、そのへんに置いていても盗まれることはまずないとのことだったので、ベンチの上に置きっぱなしにしていたのだ。

フルーツロードに向かった。途中、都道最南端へ行く時にあったどの坂よりも急な坂を上った。走るのなんてとても無理だと思った。

フルーツロードは、坂の途中にある、都道からそれた脇道だった。道沿いに南国果実の木が植えられていて、果実は勝手に摘んで食べてもよいそうである。フルーツ・バカ一代にとって、エデンの園みたいなゾーンだ。

残念ながら、南国フルーツの植物的な知識に乏しいため、どれがどれやらわからなかった。ゆえに、味見歩きという真似もできなかった。

坂を下り、港に戻る。

待合室は帰りの船に乗る客で混雑していた。乗船券を買い荷物の整理をしていると乗船手続きが始まった。あれっ? と思った。まだ2時前なのに?

ところが2時前で正しかった。ははじま丸の父島行き出航時間は午後2時ちょうどだったのだ。どういうわけか2時半だと思いこんでいた。フルーツロードで南国果実に夢中になっているうちに船が出航していたら、シャレにならんレベルの不祥事オブザイヤーだ。

帰りの船の中で、村上春樹『街とその不確かな壁』を読み終えた。春樹氏の小説にしては珍しく、あとがきがあった。

本作は、1980年に、とある文芸誌に掲載された中編が元になっている。その作品はどの単行本にも収録されていない。書き切れなかったという思いがあったためだ。

新たに書き直されたのが『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』である。

この作品によって、最初に書いた中編のテーマを書き切れなかったという思いは、一応払拭することができた。しかし、40年近くの年月を経て、70代となった自分が今の技量とこれまで培った経験を生かすことで、もう一度その中編を書き直したらどうなるかと思ったのが、本作を書いたきっかけらしい。

あとがきに書かれていた内容は大体そんな感じだった。

文芸誌に掲載されたという中編は、当然読んだことがない。しかし『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』は何度も読んだ。本作を読み始めてすぐに、『世界〜』の設定が踏襲されていることに気づいた。次に気になったのは、続編なのかリライトなのか、ということだった。

結論から言うとリライトであった。しかし、あとがきを読まなくても、これが『世界〜』に不満をもってのリライトではなく、書かねばという内的必然性を持った上でのリライトであることは察せられた。

本作は、前作に修正を施した作品ではなく、世界観とテーマを共通のものとして一から書いた、完全なる新作である。『世界〜』と同じような場面もあるし、同じような登場人物も出てくる。しかし、あくまで「ような」であり、完全に同じではない。

『世界〜』には、博士と大佐という二人の老人が登場するが、二人を描くことによって表現された「老い」は、観念としてのものであり、実感がこもっていなかった。これに対し、本作に登場する子易さんと元将校も、同じく「老い」が表現されているが、二人とも語る過去を持っているという点で、『世界〜』の博士や大佐とは異なる。

子易さんと元将校の過去には、それぞれある時点に「喪失」という出来事がある。また、本作の主人公も、「喪失」という出来事を抱えて生きている。

『世界〜』と本作の違いは、「喪失」について書かれているか否か、ということではないたろうか?

『世界の終わりとバードボイルド・ワンダーランド』の「私」は、博士の実験の犠牲となって、今いる世界に存在することができなくなってしまう。しかし、その顛末の書かれ方には「喪失」が感じられない。「私」のパーソナリティには、もともと失うものなんてないしどうなったっていいや、みたいな諦念を感じる。それは「喪失」とは意味がまったく違う。

次の作品『ノルウェイの森』では、冒頭でワタナベくんが飛行機の機内で過去を振り返る場面があった。それはキスギくんと直子を失った過去だった。だが、ワタナベくんは三十七歳で、「喪失」の意味を知るにはまだ早かったと今は思う。この作品ににおける「喪失」の扱われ方は、人生の意味と結びつけて深く考察するためのものではなく、あくまでも個別の出来事として処理し、その記憶によってかき立てられるエモさで読者を巻き込むためのものであったろう。ゆえに、超ベストセラーになり得たともいえる。

『ねじまき鳥クロニクル』における間宮中尉の長い話によって、村上作品における「喪失」の意味は、初めて、重く深いものとして真剣に取り扱われるようになった。「喪失」は、以降の作品においても、非常に重要なテーマとなっていく。

本作は『世界〜』のリライトではなく、「喪失」の意味を考えるようになって数十年経った春樹氏が、元となった中編作品を、「喪失」インストール済みの状態で書き直してみた作品なのだ。だから『世界〜』はまったく関係ないのだ。あれはあれで完成されている。

4時、父島の二見港に到着。荷物が重かったのでいったん宿に直行し、シャワーを浴び、洗濯をしてから、『B.I.T.C 小笠原生協』へ行き、缶サワーを買った。

6時、夕食を食べ、部屋に戻る。

Gさんと待ち合わせしたのは7時半だったが、その前にGさんからLINEメッセージが届いた。見ると、今日は雨だったりしたので、昼食にしたというものだった。お昼にランチを食べたということと判断し、了解と返答した。

買ってきたサワーを飲み、12時就寝。