7時起き。朝飯に、ハムとレタスサンドを作って食べた。
9時半から作業。現場のPCがシャットダウンされていたので、誰か私のPCの電源を入れてくださいと、メッセージを書き込んだら、ブルさんが現場にいて、オンにしてくれた。
昼、いつもの内科検診へ。平穏無事。
ローソンで明日の電気グルーヴライブのチケットを受け取り、ドラッグストアで買い物して帰宅。
昼飯に、たぬきうどんを作って食べる。つゆはいつも、だし汁:醤油:みりんを、300ml:25ml:25ml の割合で作っているのだが、だし汁を顆粒だしにした場合、その分の塩分が加わるため、トータル塩分を計算し、300ml:15ml:25ml にしてみた。すると、やはり味が薄かった。
夕方、ヨネトシさんからメール。昨日送った、ドキュメントについての雑感に関する返信で、色々反論が書かれていた。ここで反論を書くと、不毛な議論になりそうだったので、個人の感想を書いただけなので、そう思う人もいるのだと思ってくださいと、柔らかく返事をした。
それはそれとして、面倒なことになったなあと思いもした。書かれていた内容がそもそも論の羅列で、その通りであることは確かなのだが、現実的に守り通すことは不可能なこともあったからだ。
とりあえず、ヘルプはしなくていい感じになっているので、なるべく触れないようにしよう。一昨年から去年の現場で、新監督と色々あった頃を思い出した。でもあの時は、歩み寄るという体験ができた。今回もそれを目指そう。
気温が高いうちに走った。善福寺川沿いから環七を渡り、中野通り、青梅街道、大久保通りから、いつもの中野帰宅ルート。8キロ。暑さのせいか、ごくゆっくり走っても心拍数が150を越え、ヘロヘロになった。8月に走らなかったため、バテやすい体になってしまった。
夕食に、たぬきうどん。昼と同じ。
『白い巨塔』30話見る。学術会会員選挙の方はうまくいき、財前は当選する。裁判は、前回持っていかれた証拠をたてに、関口弁護士から揺さぶりを受けるが、財前は答弁でそれをかわす。しかし、責任は担当医のミスによるものであるのかという関口の誘いに乗り、「そうです」と答えた瞬間、傍聴人席にいた柳原は切れて叫んだ。「嘘です!」
柳原は証言を撤回。しかし、撤回しても証拠がなかった。そこへ、選挙の票数稼ぎのため舞鶴に追いやられていた江川が登場。佐々木の手術後に財前が喋った内容の抄録を持ってくる。柳原はそれを関口に渡し、次の審議で関口は証拠としてそれを提出。さらに江川本人も証人に登場。財前、絶体絶命!
少し間をおいてから、最終回31話を見た。
絶体絶命! から時間が飛び、ケイ子と二人、どこぞの海辺で判決を待つ場面。財前は、柳原を除籍したことを話しつつ、胃の苦しみにうずくまる。そこからトントン拍子で判決場面。財前は有罪となり、佐々木一家に賠償金を支払うことになった。記者たちに、最高裁まで争うと息巻く財前だが、額には汗が浮かんでいる。最高裁まで持ち込むのはやめるよう、里見が忠告にくるが、そこで財前は昏倒する。
以降、レントゲン写真、胃潰瘍、手術の流れになるが、レントゲンの段階で明らかに癌だとわかる。胃潰瘍と言われた財前は念のため里見のところへ行き、胃カメラを飲む。里見の診断も胃潰瘍だった。
財前は、師匠の東教授に手術を頼みたかったが、選挙のことがあるから言いにくいのを里見が察し、間に入ってくれる。すぐに手術場面。しかし、回復後すぐ、転移が見つかり、手遅れの診断。すぐに縫合。時計を進めて、手術は成功したと財前に思わせる。切除した胃も別の患者のものを使って、見せてくれという財前の目を誤魔化す。
しかし、財前は自分の顔に黄疸が出ていることに気づき、里見に、自分は癌なのかと聞く。里見は、胃潰瘍だと答える。
結局、里見は最後まで告知はしなかったが、財前は里見の前で、自分が癌になって初めて、医師のあるべき姿がどういうものか分かったと、悔いの言葉を吐く。田宮二郎の芝居は鬼気迫っている。
その後、財前はせん妄状態になり、最後に、母の幻を見たのか、「母さん」とつぶやいて、事切れる。
ここは、やばかった。胸が張りさせそうになる言い方だった。
枕元には遺書があり、里見が代読する。癌になったおかげで、医の道を外した自分が、最後に悔いることができて良かったということと、自分の遺体は大河内教授に解剖してもらい、医学に役立てて欲しいというものだった。
モーツァルトのレクイエムが流れる中、財前のベッドは、病院の廊下から、おそらく霊安室に運ばれる。
この最終回、リアルタイムで見ていた。まだ幼かったので、内容がわかったとは言えないのだが、手術しようとしても手遅れだった場面、時計をあえて進める場面、壁に掛かった息子たちの描いた絵、里見に自分は癌なのか聞く場面を覚えている。癌は、告知をしてはいけないのだと、その時に思った。
田宮二郎の芝居は、狂気をはらんでいると言っても良かった。ここまでの芝居をしてしまったら、放送を待たず、後は自分が消えるだけだと思ってしまったのだろうか。
二週間前に猟銃自殺した俳優が、死ぬ芝居をする最終回を、当時の視聴者は見たわけだが、どういう感じを抱いたのだろうか?
視聴率は30パーセントを超えたらしい。そりゃそうだ。しかし、興味本位で見た人は、見てはいけないものを見てしまったように感じたのではないか?
死の際にいる人間が、生の淵にギリギリ足をかけて、最後の言葉を発するところを記録したものであり、演技の範疇を超えたものであったといえるかもしれない。
夫人は、「白い巨塔」のドラマ版は、やるべきではなかったと語っている。その通りだと思った。
財前は、悪役なのだけど、不思議と、かまってあげたくなる人物だった。一分の隙もないほどカッコいいと思わせつつ、よく見ると隙だらけだ。それは、財前の役作りではなく、田宮二郎本人の味だったと思う。
最終回は、里見が佐枝子にネパール行きを思いとどまらせようとする場面がある。昼メロ的な場面だが、このドラマのコア視聴者層がヅマヒト達だったから、こういう場面を作ったのでないか? というより、70年代の田宮二郎ドラマ全体が、そうだったのではないか?