トマト再生の兆し

昨夜は、急に絵が見たくなり、画像検索を繰り返して、色々見た。作者の名前を検索し、絵を見るの繰り返し。

若い頃は絵画への興味がまったくなかった。というより、美術全般がわからなかった。

わからないから、好きになりようもなかったわけだが、人の縁によって知らず知らずのうちに啓蒙されたおかげで、なんとか展ポスターが町に貼られていると、おや? と立ち止まる程度にはなっている。まるで『海辺のカフカ』のホシノちゃんみたいだ。彼は音楽への興味が育まれたわけだけど。

朝、ホットドッグ食べる。

水耕栽培のトマトが、再び葉を茂らせてきた。9月23日に枯れている茎と葉をバッサリ切り落とした。その時点で節々から生えていた芽がこの2週間で成長したのだ。

生育に適した気温に下がったためであるが、もう少し早い時期にそうなってくれたら、秋トマトの収穫が期待できたのになあと思う。もう10月に入ってしまったし、あとひと月もしたらトマトを育てているエリアに日光が当たらなくなる。新しく茂った葉の間に黄色い花が咲き始めていて、たぶん結実するのだろうが、赤くなる前に日が当たらなくなることは間違いない。三年前と同じパターンだ。

となると、12月になり、日中の最高気温がそろそろ10度を下回るかという頃に、緑色のトマトを収穫し、りんごと一緒にコンビニ袋に入れて追い熟させることになりそうだ。

今年は、8月31日に43個目を収穫した。100個ノルマにはまったく届いていない。5月の茎折れが痛かった。このため、6月28日から7月10日までの収穫最盛期に、ひとつのトマトも収穫することができなかった。

7月頭のエアーチューブ空気漏れも痛かったが、これは、エアレーション改良につながったので、結果オーライだろう。7月中旬から8月にかけて収穫したトマトが、どれもきれいなトマトだったのは、この改良のおかげだったと思っている。

その証拠に、200個以上を収穫した三年前の8月に獲れたトマトの汚いこと!

この時は、8月以降に獲れたトマトは実割れしまくっていたので、生では食べず、全部まとめてトマトソースにした。

今年は、9月23日の時点で、もう終わりかなと思っていたのだが、明らかに復活しているので、このまま育てて見ようと思う。根っこというインフラがすでにある状態なので、栄養吸収も早かろう。

昼、ご飯、モツ煮込み、だし巻き卵、きゅうりのぬか漬け。

午後、差し迫った作業なし。

夕方、春日へ。『本読み会』に参加。テキストは森本薫『女の一生』

参加者がとても多く、満席に近い状態となった。演目ゆえだろうか。

0塚さんが参加していたので挨拶する。文学座の研究生だった時に、公演で使った『女の一生』の台本を持ってきていた。

昭和20年4月に初演され、戦後の世の中に合わせる目的や、演出上の都合からテキストの改稿がなされ、色々なバージョンが残されている。青空文庫にある定本と、文学座上演台本は、時間の流れが違う。定本はプロローグとエピローグが焼け跡場面になっているが、上演版は焼け跡場面をすべて最後にもってきて時間をひとつながりにしている。

そういったテキストの違いはあったが、物語は、戦争をはさんだ、ある家族の年代記である。先日読んだ『楡家の人びと』を思い出した。あちらも、戦争をはさんだ、ある家族の年代記であった。この構成は、戦後のある時期までの日本人にとって、ホームドラマのテンプレートみたいなものだったろう。

叔父の章介が面白かった。家族の中心部からちょっと離れたところで、全体を眺めているような役だった。

『女の一生』といえば、モーパッサンの同名小説がある。9年前くらいに読んだが、これは、内容的に全然違う話だった。世間知らずのお嬢様が、熱烈ラブコールを受けて結婚したものの、旦那はすぐに冷たくなり浮気し放題となり、息子は放蕩者に育って借金を繰り返し、散々苦労させられ、結局、親も旦那も息子も死んで財産もなくなり、かつて召使いだった女に世話されながら老後を送る話だ。ラスト、バカ息子がどこぞの女に生ませた子供を引き取るとき、赤ちゃんのかわいさにきゅんとなる場面が印象的だった。

9時過ぎ終了。本読み会は今年で20周年を迎え、あと3回で100回だという。自分はいつから参加したのかを調べてみると、2016年の67回からだった。

10時、実家帰宅。

夕食にうどんを作って食べた。

明日の早朝釣りに行くつもりで、11時半就寝。しかし、寝ながらスマホで昔のラジオ録音などを聞いていたら、1時半まで起きてしまった。