そこで生きるのが自然である在り方

朝、サッポロ一番の塩ラーメン。
昼はお握り。

夕方、阿佐ヶ谷へ。
フジランチで夕食。
Bランチ食べる。
国分寺のフジランチと比べると、ライスの寮が普通だが、今の自分にはそれで十分だ。

ザムザ阿佐ヶ谷にて、南京小僧の公演観劇。
山ちゃん(山崎由貴)が出演しているのにびっくりした。
5年前と変わらぬ若さに二度びっくりした。
演技スタイルが変わらないのはご愛敬だったが。
元気そうでなによりだった。

南京小僧の芝居は、イーノ君の本を肉体化出来る役者がいるか否かにかかっていると思う。
厄介なのは、イーノ君の本を肉体化できることが、そのまま普遍的な俳優のスキルとならないことだ。
つまり、いい役者を呼べばいい作品になるとは限らない。
イーノ君の言語世界で心地よく遊び、その世界で生きている者として台詞を吐ける役者が出演しないといけない。
能力うんぬんの問題ではなかろう。

さらに言えば、役者としてのイーノ君自身も、自分の作品世界で遊べなくなっている。
作者兼出演者の宿痾だと思う。

今回の場合、勝目さんのみ、イーノ世界の住人として生きていた。
<その台詞を自然に吐いている>
のではなく、
<その台詞を吐くのが彼女にとって自然のこと>
になっていた。

テーマと台本は、10年前も今回も変わっていないと思う。
ぶれているわけではない。
変わったのは、人であり役者なのだ。
そうした環境の変化に対応して台本を書くようなイーノ君だったら、そもそも現在の南京小僧の成り立ち方もあり得ない。
極端な話、勝目さんが出ずっぱりの二人芝居でも上演しない限り、南京小僧の本質というのは浮かんでこないのではないだろうか。

終演後、客席で三代川夫妻に会う。
「来てると思いました!」
とようちゃんに言われる。
フジランチで食べている時にツイートしたのを読んでいたらしい。

山ちゃんに挨拶し、劇場を後にする。

『新平家物語』5巻読了。
小松重盛の章がいい。
父・清盛よりもある意味で恐れられていたというところに説得力がある。
人としてスキがなく、抜けたところがないためだ。
にもかかわらず、そのストイシズムゆえに、小学生の頃から重盛は好きだった。