古いパソコンに惹かれるわけ

 ジャック・ウェルチ『わが経営』上巻読了。
 GEはもともとエジソンが作った会社で、製造業が母体である。
 が、利益のない部門ならばどんどん切り捨て、小回りのきく企業体質を作っていく過程が描かれている。
 シェア1位か2位が取れない分野は、続ける必要なしという考え方だ。
 そうだそうだその通りだと、素直に受け入れられる考えではないが、改革のプロセスにおける物事の進め方や意志の持続、新しい考えを受け入れる柔軟性にはさすがにうならされるところがある。

 昨日に引き続き、Amigaについて調べる。
 調べるといっても、現役のパソコンではないから、その作業は歴史資料の収集や考古学に似ている。
 シーラカンスの化石を見て、
 (これが生きて動いていたなんてすごいなあ)
 と物思いにふけるのと大差ない。

 調べれば調べるほど空想の時間をとることになる。
 もしもAmigaでCD-ROMドライブがもっと早く利用できていたらどうなっていただろう。
 もしもマイクロソフトのOSがAmigaで動いたらどうなっていただろう。
 もしもAmigaのクローン機が沢山できていたらどうなっていただろう。

 この「もしも」を続けていくと、必然的にほかのパソコンに考えが及ぶ。
 たとえばシャープのX68000。
 もしもX68000版の一太郎があったらどうなっていただろう。
 もしも値段があと10万安かったらどうなっていただろう。

 現実として国内市場ではNECの天下は揺るがなかった。
 そのNEC幕府も、やがてDOX/Vの黒船によって政権が揺らぐことになる。
 AmigaもX68000も、90年代半ばにその使命を終え、市場からひっそりと消えていった。

 天下を取ったDOS/Vパソコンのどこに魅力があったのだろうか。
 それは、魅力がないというところと思う。
 つまらないパソコンだけど、Windowsがインストールされることで、見た目がかっこ良くなる。
 拡張カード次第で、ビデオに強い、ゲームに強い、サウンドに強いなど、カスタマイズができる。
 もとが良くないかわりに、色々な姿に変身できる。
 そして何よりも膨大なユーザーがインターネットにひしめき合っている。

 AmigaやX68000は、コンピューターの理想郷を作ろうとしたのだろう。
 だから、登場した時のインパクトはすごかった。
 誰もが憧れた。
 しかし、理想郷には変化がない。
 変化が必要なら、そこは理想郷ではないということになる。

 DOS/VマシンはもともとIBM-PC/ATのクローンだ。
 IBM-PCの最初のマシンは1981年に登場した。
 魅力的なところが少しもない、しょっぱいマシンで、IBMというネームバリューがなければとても売れなかったはずだ。
 ところがこのマシンがあっという間に天下をとってしまった。
 当然クローン機も売れた。
 そのうち、本家より安いクローン機の方が売れるようになった。
 こうなると民族大移動みたいなもので、ユーザー数の絶対値はとてもほかのメーカーが敵うものではなくなってしまった。
 現在のパソコン界は、その状態が20年以上続いていると思えばいいだろう。

 使命を終えてしまった機種だからこそ、古いPCへの憧れは深まる。
 いつ登場し、いつ使命を終えたか。
 そこには完成された歴史と物語がある。
 もはや、売るために存在していない。
 残ったのは、ハードやソフトの技術者が、そのマシンにこめた思いだけだ。
 そしてその思いは、発売されていた当時より強く感じることができる。
 コンピューターが急に、人間と近しいものに感じられる。
 それは、ぬくもりにやや近いものかもしれない。