古い日本語訳を自然に読めるようにするといい

5時半起き。ブログ書きなどをし、7時前に朝飯。昨日作ったオムレツの残りを食べる。

午前中、テストデータ作りとそれを読み込ませての業務シミュレーションをする。思った通りの動作をしなくなるたびに「いけねっ」と思い、動作を止めて中に入ってコードを修正するその繰り返し。
ただ、地道に続けてきたので大分仕上がってきた。まだ業務が存在していないのに業務ツールの方が先に完成するのは、フローとしては間違っているが、社内ツールをつくるような現場は大概そういうものだ。

昼、ピザとフライドチキン食べる。

『私をくいとめて』読む。歯科医とデートしたエピソード。映画ではみつ子のトラウマになっている演出だったが、原作ではAの方が傷ついているようだった。確かに、Aが傷ついているのを映像にしても意味がないから、映画の演出は正しかった。

夕方、わき目もふらずまっすぐ帰宅。予約していたオンライン演劇を7時半から見る。チェーホフの『かもめ』だった。
視聴者を、チェーホフなどほとんど見たことがない人と想定している感じのナビゲーションがあり、1幕だけ俳優がZOOMで演じ、視聴者はLIVE配信で見るという仕組みだった。間がずいぶん長いのと、喋りを溜めすぎていることが気になったが、セリフを噛んで含めるように伝える意図があったのかもしれない。
テキストの訳は神西清ではなかった。しかし神西訳の古い日本語の方が逆に演じやすいはずだと思う。チェーホフの戯曲を今のヤングたちが演じるにあたっては、作品の背景である19世紀の生活様式と、ロシア人の名前というふたつの『障壁』がある。神西清訳だと半世紀前の日本語の言い回しというフィルターがかかるから、かえってロシア文学の『障壁』を意識しなくなる。
いや、するのかな? でも、神西訳の日本語を自然に聞こえるようにする努力は、ロシア文学どうこうとは関係ない。で、努力の甲斐あって自然に喋れるようになった頃には、ロシア人の名前や19世紀の生活様式は『障壁』ではなくなっているのだ。
逆に言えば、『かもめ』の日本語訳を現在の言い回しにすると、かえってロシア的もろもろの『障壁』が強固なものになると思う。古い日本語訳を自然に言えるようにする努力は、チェーホフに限らず他の翻訳戯曲に命を通わせるための近道になるんではないかなあ。さすがに明治時代の訳は古すぎるが。

ポール・マッカートニーの新作『Maccartney III』が届いた。コロナの一年、家にいなきゃいけなくなり、じゃあ曲作るかとコツコツやっていたら、アルバムができてしまったというもの。
80年代から90年代にかけてのポールさんは、売れたいとか評価されたいとかいう思いに苦しんでいたように思える。86年の『Press To Play』あたりからがそうだった。ちょっと痛かった。
七十代になってからのポールさんはそういう雑念から自由になり、自分の中にわき起こってくる音楽をそのまま曲にしている感じがあって大変好ましい。今回の作品も気負いがなく、ロックおじいちゃんが時々「イエー」とかノリながらこしらえた、木彫りのおもちゃみたいなアルバムだ。嗚呼、ポールさん。嗚呼嗚呼、ポールさん。クリスマスプレゼントをありがとう。