滑舌

 美術案が固まってきたのに比例して、役者の動きも細かい部分で整理がついてきた。
 もう少し前へ、もう少し後ろへ、そこは上手寄りに、などなど。
 今日の稽古場は広く、そのあたりの融通がわりと利く。

 豊田君はマグネシウムに出演するのは初めてだが、3年前のワークショップに参加したことがある。
 遠い後輩にあたる。
 滑舌は決して良い方ではないが、愛嬌があり、その愛嬌の源はもしかすると滑舌の悪さにあるのかも知れないと思わせる。
 となると、修練を重ねて流暢に喋れるようになった彼には、そこに至る過程でかけがえのない魅力の一つがそぎ落とされることになる。

 演出をする立場としては、逆に考えた方が彼のためにはいいのではないかと思う。
 すなわち、滑舌が悪いから直せというのではなく、その滑舌の悪さは一番の魅力なのだからもっと出し惜しみしろ、というやり方だ。
 普段は滑舌を良くしていて、魅力を封じ込める。
 そして、満を持して、
 「おあえがいででいでいっだじゃいか!」
 と叫べば、それはある種の魅力となろう。
 つまり、魅力隠し目的で滑舌を修練するのだ。
 そう考えていけば、修練も楽しいはずだ。

 役者の発声訓練にはいろいろある。
 有名な外郎売りの台詞など。
 しかし、訓練でうまくできても、肝心の芝居そのものの滑舌が悪かったら意味がないことになる。
 万能の訓練方法はない。

 先達からお下がりのように譲り受けた訓練方法を、闇雲にやっていても、演技は決して上達しない。
 やはり、場数を踏むのが一番確かな方法だと思う。
 踏めなかったら、日常を利用するしかない。
 稽古が5時間あるとしても、1日の残りはあと21時間ある。
 睡眠に8時間とっても、残りは13時間。
 その13時間すべてのしゃべりを、発声や滑舌の訓練だと思うべきだ。
 大声を出すというわけではなく、自分の声や言葉の抑揚に対して自覚的になるだけでも、稽古場で過ごすより膨大な効果が得られると思う。
 いや、むしろ日常でのそうした体験が、稽古場での時間をより密なるものにするのだ。
 昨日より、はっきり喋れるようになった自分を確認できる稽古場は、昨日の稽古場より楽しいはずだ。
 稽古場に行くことが楽しいと感じられる生活から生まれる演技は、芝居を明るくする。

 11時帰宅。
 洗濯物がたまってきた。
 帰宅が遅いので選択する暇がない。