山崎努『俳優のノート』読み終わる。
自分は癇癪持ちであると山崎さんは書いている。
稽古中に1回、千秋楽間近の本番中に1回、癇癪を起こしている。
稽古中の癇癪は、演技がうまくいかないことによるもの。
本番中の癇癪は、ある役者が耳元で台詞を叫んだため。
舞台袖で大騒ぎしたそうな。
渡辺いっけいが山崎努を後ろから抱き、
「やまさん、こらえてください」
と言ったとか。
新国立劇場で、しかも本番中というところが、すごくおかしい。
しかも、山崎努の演じている役がリア王であることを考えると、できすぎのエピソードだ。
開高健『地球はグラスのふちを回る』読む。
旅・酒・食とルポの人と言えば椎名誠だが、1970年代までは開高健だ。
今でも『オーパ!』をめくるとわくわくする。
巻末の解説に、体育の時間に鉄棒で大車輪をする17歳の開口少年のことが書かれていて驚いた。
むろん、当時は痩身の少年で、我々が知っている太り肉のあの姿ではないのだが。
中学時代は器械体操部で、大車輪ができたのはそのためらしい。
夕方、新宿へ。
はなまるうどんで温玉ぶっかけを食べ、ゴールデン街劇場へ。
劇場の入り口に見慣れた中山君がいて、たばこを吸っていた。
その姿はゴールデン街にひしめくたくさんの看板ととけ込み、なんだかとても絵になった。というかヒモみたいだった。
ヒモの中山君が振り返る。
「ドカさん、早すぎますよ」
開演時間を30分間違えたらしい。
仕方ない。そのあたりをぶらぶらして時間を過ごすことにするよ。
ゴールデン・ガイ中山君にそう言って別れ、花園神社のあたりを散歩した。
30分ほど缶コーヒーを飲みながらほっつき歩き、開場時間に再び劇場へ。
中は思っていたより広いような、けどやっぱり狭いような感じだった。
舞台装置を建て込んでいなかったら、もう少し広く感じられたかも知れない。
阿佐ヶ谷南南京小僧公演を見る。
客席と舞台がきわめて近い印象。
この小屋は、裸舞台の方がいいだろう。
飯野君の本は、70年代的カルチャーへのオマージュで構成されることが多く、当時小学生だった我々はそれを懐かしさやノスタルジーとして脳内変換し、我々より若い観客はそれを中央線沿線にある雑貨屋的なかわいらしさとしてとらえるんじゃないかと思う。
今回の芝居も、シーンごとに歌謡曲を歌い、角川映画や火曜サスペンス劇場っぽさと戯れている。
が、1時間30分という長さに含めるには、物語の内容が多いと思った。
歌や踊りのシーン、そして種々の戯れをカットすれば、登場人物の人生はよりグロテスクに、よりはかなげに、より愛しく浮き彫りになるのだろうけど、そうすると<南京小僧らしさ>は失われる。
似たようなことを、確か昨年4月に見た公演でも日記に書いたが、劇団のアイデンティティーというものについて今回も考えさせられた。
近くの飲み屋で飲む。
受付を鶴マミが手伝っており、彼女とマグの次回公演の話をした。
主に、チラシ、DM関係。
それから、内容についても説明する。
受付に入っていた宇原君とも久々に話す。
宇原君、髪が金色になっていた。
クリリンを殺されたのだろうか。
「『ゲド戦記』見ました?」
「見てないよ」
「すげえつまんなかったですよ!」
ジブリ愛の強い彼は憤っていた。
「でも、岡田准一の声は良かったです」
公平な評価も忘れない感覚こそ、ジブリ愛ではある。
ゴールデンガイの中山君は連日の飲みに疲れ果てて帰ってしまった。
背中がネオンの海に消える様子は、獲物を捕らえることができなくなった老オオカミが群れを追われる姿に見えた。
イーノ君はちょこちょこ動いてメニューを運んでいた。
店員みたいだった。
帰り際、伊藤昌子さんから、
「バイバイ、デカさん」
と言われた。
オレはデカさんであった試しがないが、それもまたよし。