今の時点で考えた「救い」の形

夕方、上荻で稽古。

昨日出来なかったところと、『走馬燈』をやる。
『走馬燈』の前半は、所々つっかえながらも、流れるようになってきた。

後半、芹川と知恵ちゃんのシーン、二人の心の奥の奥から、なにか、もやっとしたものが少しずつ出てきている。
それはまだ、感情とも言えないものだが、それでも人が心の奥の奥にもっているようなものだ。
それが、引っ張り出されて来た時、どうなるか?
危険な方向に行きそうな時には、稽古を止めないといけないだろう。

23歳の時にやった『断末魔の轟木氏』では、男が女の首を絞めて、殺すシーンにしていた。
男の中にある、ネガティブな愛憎が混じり合い、殺意に変化するという場面なのだが、そういう定義ができる能力がないまま、本能的に書いて演出していた。
そのシーンを稽古している時、女を演じた女優が、ショックで震えだしたことが一度あった。
その日は早めに稽古を切り上げたのだが、あれはきっと、危ないところに入りかけていたんだろう。

マグで再演した時は、殺すという展開にはせず、首を絞めてやめるという場面にしていた。
まだ、殺意というネガティブさが残っていたのだ。

今回配った台本のト書きにも、首を絞めてやめるという記述があった。
それを、消した。

殺意という形になるのが、どこか違うと思えたのだ。
そういうものの潜む方向へ、足を踏み出そうとした男が、自分の意志で踏みとどまり、戻るという話だからだ。
そして、踏みとどまることが出来た瞬間、心配してくれている人に気づくという展開。
殺意を入れる必要なはない。

知恵ちゃんが演じる女は、単純に、死のうとしている身近な人に対して、「死ぬな」という強い感情をぶつける。
そこには理屈というものがない。
単純な感情だ。
単純であればあるほど、それは男に響く。

重いと言えば重いのだけど、救いのない展開ではないと、自分では思っているし、むしろ、自分の考える救いを、今の時点で色々考えたのが、今回の『走馬燈』だ。
救いに、複雑な感情はいらない。
命の固まりに、触れられればいい。

稽古後、解散し、家で作業をする。
音響とパンフとチケットとアンケート作り。
こう書くと大変そうだが、どれもひな形があるので、字を入れるだけだ。
大したことはない。
『走馬燈』ラストを演じることに比べれば、全然

2時前に就寝。