1964年のジャイアント馬場

5時半頃、雨音で目覚めた。
走れないなあと思いながら二度寝する。
7時半に起きると雨はやんでいた。

8時半から走る。
善福寺川から荻窪まで往復。
8.4キロ。

途中で、亀の産卵を目撃した。
おっさんが川を見ながら何か言っていた。
「あー、卵産んじゃう? ダメだよ?そこ。あー?」
見ると、なに亀かわからないが、亀が岸の傾斜に穴を掘っており、体を揺すりながら卵を産んでいた。

増水したらひとたまりもないなと思ったが、善福寺川に亀がいたのを知った驚きの方が大きかった。

トマトの下葉かきをする。
最近真夏日が続いているせいか、下葉が黄色くなっている。
それらを消毒したはさみで切っていく。

ジャガイモの収穫を終えた後のスペースをシャベルでならしていたら、掘り残しの芋が3つ出てきた。
どれも結構大きかった。

開高健『ベトナム戦記』読了。

午後3時過ぎ、阿佐ヶ谷のサイゼリアへ。
エスカルゴとワイン。

『1964年のジャイアント馬場』読む。

7時に出る。
「大江戸寿司」でにぎりを8皿食べる。

8時前帰宅し。

「1964年のジャイアント馬場」読了。

日本プロレス時代の馬場さんは、我々の知る動きの鈍重なレスラーではなく動きの機敏なフィジカルエリートだった。
デビューして間もなくアメリカに渡り、いったん帰国したものの7ヶ月しか日本にはおらず、力道山が死んだ時もアメリカにいた。
力道山と接した時間は猪木に比べるとずっと短かったのだ。

馬場はアメリカに渡って、生まれて初めて自分が大きくて良かったと思うようになった。
どのレスラーよりも背が高く、肉体は頑健。
胴回りはがっしりし、足も太かった。
ヒールとしてビッグマッチのメインを張れるまでになったのも、その肉体のおかげだ。
しかも、当時はアメリカンプロレスの黄金時代で、馬場の稼ぎはプロ野球の王や長嶋をしのぐほどだったという。

面白いのは全日旗揚げについて、馬場は気乗りしなかったということ。
選手をやっていたかったらしい。

実際、経営者として考えると、80年代までの馬場さんは凡庸だったと思う。
猪木の新日本プロレスに話題をさらわれ、鶴田という大器も生かし切ることができなかった。

ただ、馬場さんがすごいのは、天竜革命のように、それが必要であると判断したならば、自分のプロレス観と違っても存在を認めたことだろう。
その影にターザン山本がいて、ブックのゴーストライター的存在であったというのも興味深い。