おでんの残り汁にうどんを入れ、コロッケをのせて食べる。「めしばな刑事」には、コロッケそばのことも載っていた。オレはそばが食えないが、立ち食いで食べるコロッケうどんでも同じことだ。五、六年前、コロッケうどんにはまった。どういうわけか食べたくて仕方なくなり、仕事先近くにある「ゆで太郎」でよく食べていた。荻窪にあった「天亀そば」でも食べた。汁が黒い方が、コロッケうどんは旨い。讃岐うどんで食べる気にはならない。そして体重がぐんぐん増えている。公演が終わってボロボロになっていた体が、太ろうとし始めるほど治ってきたと思いたい。このまま続くとやばい。七、八キロ一気に行く。
部屋が散らかり、洗い物がたまる。土曜日からたった四日間で自堕落になってしまった。気分の移り変わりは、食欲の増大と関係があるのではないか。人はホルモンバランスが悪い時、脳のセロトニンが不足し、代わりに甘いものを食べるという話を聞いたことがある。甘いものとセロトニンの関係はわからないが、ドーパミンとは関わっているような気がする。
猛烈な食欲に襲われる時は過去何回かあった。その前にどんなことがあったかを調べてみると、なにかがわかるかもしれない。
そんなことを考えていたら、ふと気になって、2009年のブログを読み返してみた。3月末から4月頭にかけて、毎日10キロ走っている。この時、体重が落ちた記憶はない。西荻に住んでいて、仕事先は飯田橋だった。今より起きる時刻は早かったはず。路線検索で調べてみた。駅を8時20分に出れば8時50分台に飯田橋に着く。家から駅まで徒歩10分だったから、家を出るリミットは8時10分。今より10分ほど早い。荻窪に引越し、仕事先が新宿になった時は、家を出るのが10分遅くなった。つまり今と同じだ。今の部屋に越して自転車で通っていた時はさらに10分遅くなった。8時半に出ても9時に間に合った。出来すぎだったな。
10年以上前、小金井に住んでいた時はどうだったのだろう? 青山で働いていた時は仕事が9時半からだったが、8時半に家を出ないと遅刻した。だから起きる時間も出る時間も今と変わらない。西荻に越してからは、出る時間が20分以上遅くなった。そのあと半年して仕事先が幡ヶ谷になり自転車通いになった。たぶん8時20分くらいに家を出ていた。
仕事先が月島のときはしんどかった。どうやって通っていたかあまり覚えていない。毎日、勝鬨橋を渡っていたから、たぶん築地まで行ってそこから歩いていたんだろう。
通勤でいちばんきつかったのは、バイク便時代、朝9時三田待機の時だった。都心の渋滞を抜けるから家を7時半に出ないと間に合わない。かかった時間のお金が出るわけじゃないし、ガソリン代は余計にかかる。しかもその頃、歩合が5パーセント下がった。ベテランライダーはそれをきっかけに辞めていったがオレは残った。なぜあの時残ったんだろう。芝居の本番が迫り、新しい仕事を探すのが面倒だったから? いや、仕事に慣れてきて、稼ぐのはこれからと思っていたからだ。でも、この時辞めていたら、俺の人生はずいぶん違ったものになっていたはずだ。
歩合が下がり三田通勤になったのは1998年の12月だった。一ヶ月通勤してから、朝がきついと思い、シフトを12時から21時までに変えてもらった。朝ゆっくり起きればいいのでこれは楽だった。でも仕事はどんどん減っていき、ライダーはみんなイライラしていた。そのうち、事務所のリーダーTさんとI君が大喧嘩をし、I君がクビになった。他のライダーが抗議をして話し合いが行われた。その頃、長くやっているライダーは俺だけになっていた。前の年はみんなでツーリングに行ったり、事務所近くのスナックで飲み会をしたり、家族的で楽しい雰囲気だったのに。
夏になると稼げる金は20万を切るようになった。バイクの整備費とガス代、連絡の電話代は経費だったから、実質16万くらいの収入だった。ところが、仕事あがりのパチンコがいい金になった。バイクに乗っていたので打つ店の選択肢が多く、出る店を探しやすかったから勝てたのだろう。
同僚が首都高のトンネルで深刻な事故にあったのをきっかけにバイク便を辞めた。一度、追突事故を起こしたことがあったし、それから2年無事故でいたが、イヤイヤやっていたため集中力も落ち、危ないと思う瞬間が何度かあった。命あっての物種だ。しばらくはパチンコで生計を立てた。だが、メインの仕事があって小遣い稼ぎに打つのと違い、にわかパチプロ生活はしんどかった。決して負けられないため、勝負どころで大胆な投資ができない。結果、パイク便時代より勝ち金は少なくなり、打つことが苦痛になっていった。
それでも5ヶ月は粘った。打っていないときは家に引きこもり、ゲームばかりやっていた。朝はパチンコ。早いうちに3万以上勝ったら店を出て帰宅。そのまま夕方まで寝て、夜中は起きていた。そのうち頭がおかしくなり、部屋にひとりでいる時に、延々と独り言を言うようになった。喋る相手は見えない誰かだった。以前、隣人のひとりごとが気になるとブログに記したことがあるが、なんのことはない。おれもそうだったのだ。食事はカップラーメンが中心。塩分の取りすぎで体が浮腫んだ。年末年始とそんな生活が続き、生活費によって資金の目減りも限界にきた。さすがに進退窮まり、教材販売の仕事を始めた。そこはすぐに辞め、つぎにレンタルサーパーのテレマーケティングをした。仕事でPCを使ったのはそれが最初だった。花見の季節だった。
そのあたりで人生の大事件が起きた。尻に火がついたようになった。マグの稽古場日記はそれから4ヶ月後に始まっている。どこか躁状態なのは、寒中水泳の時にあげる奇声のようなもので、自分をそっちへ追い込もうとしていたのだ。自然な状態になったのは2002年の春以降くらいからで、おそらく反動からか、うつに入った。
で、上がったり、下がったりを、15年続けている。人生の大事件はその後も数回あったが、仕事の方は落ち着き、パチンコ生活に逆戻りということにはならなそうだ。もっとも今のパチンコではとても暮らしていけないだろう。
もし、歩合が下がった時にバイク便をやめていたら、どうなっていただろう? 事務の仕事を始めていただろうか? それとも芝居関係の仕事を探していただろうか? 道に詳しいというスキルを活かして、他の運搬系の仕事を始めていただろうか。いずれにせよ、足りない収入を補う目的でパチンコをすることはなかっただろう。仕事が減っていくイライラを抱えながら、芝居の台本を書くことはなかったかもしれない。そうしたら、書いた作品は別のものになっていたかもしれない。それは面白かっただろうか? わからない。そこから先の未来は、今となにもかも違っている。
一日、人生の来し方行く末を考えていたら、何もかもがどうでも良くなってしまった。ぐったりしていた。と同時にすっきりしていた。今日は禊の日だったのか。
11時半就寝。