8時起き。もずくとめかぶ食べる。
右足、少しだけ良くなったようだ。金曜日の昼、病院に行った時、時間がなくて薬局に行くのは仕事が終わってからにしたのだが、もし昼のうちに薬をもらって飲んでいたら、ここまでひどくならなかったのではないかと思う。
水耕栽培、トマトの蔓が暴れてきた。背丈が、容器の分を足して、オレの身長近くまで伸びてきた。たぶん現時点で昨年の最盛期より育っているだろう。実も20個以上ついている。今年の目標は40個。あと半分。
昨日と同じく、仮想入院生活を続けた。家でゴロゴロ、足は安静、スマホで秀樹。
西城秀樹のキャリアを年代順に調べた。
1979年の「ヤングマン」は、初めて売上でジュリーに勝利した曲であった。生涯のライバルではないが、1976年から79年にかけて、ジュリーは秀樹にとって、追い抜くべき目標だったのではないか。
その一年後、田原俊彦がデビューし、時代が一気に変わる。
世代的に、オレがリアルタイムで知っているアイドルは、トシちゃん、マッチからだが、二人の全盛期である1981年、新御三家は過去の人という印象が強かった。というより、アイドルというには大人すぎた。ヤングマンからわずか2年しか経っていないのに。
中学生から高校生にかけての六年間は、アイドルにもっとも熱中できる年ごろだと思う。
もし13歳の時に、あるアイドルを好きになったら、熱中期間は最長六年間だ。
13歳の時「傷だらけのローラ」で秀樹ファンになった女の子たちは、昭和36年生まれ。70年代後半、秀樹ファンの中核を担ったのではないか。彼女たちは「ヤングマン」の年に18歳だ。翌年1980年に就職や大学進学で、ファン活動にひと区切りつけた人は多かったろう。
1976年から78年までの秀樹は、新しい13歳のファンを獲得するには、楽曲が大人過ぎたかもしれない。逆にいえば、今聴いても素晴らしいと思える普遍性がある。
79年の「ヤングマン」はどうか? 13歳の女の子がこの曲で秀樹ファンになったということはあったか?
そりゃ、あっただろう。
だが、その年の13歳は1966年、昭和41年生まれの、ひのえうまなのだ。
Wikipediaで調べましょうね。
1979年に13歳になった女の子は、前年や翌年に比べて、極端に少なかった。もし「ヤングマン」のヒットが、一年ずれていたら、1980年から81年におけるアイドル打順の変更は、あれほど劇的なものではなかったかもしれない。
夜、足の調子はかなり良くなっていたが、薬は飲むようにした。喉を痛めた時に似ていると思った。消炎剤で炎症を抑え、あとは肉体の治癒に任せるところなど。
早く退院して家に帰りたいなと、家の中で思った。
なぜかソフトクリームが食べたくなり、クリームチーズ味のものを買って食べた。