ペンネーム

6時半起き。水耕栽培の水を補給し、きゅうりを二本収穫する。

風呂に入り、朝食にフルグラとミルク食べる。

雨だった。井の頭線で仕事へ。コンビニでコーヒーを飲み、20分ほど読書。伊集院静『大人の流儀4 許す力』読む。

午前中は日常ルーティン業務。

昼、山田屋で麻婆豆腐定食食べる。量が多かったが、とろみのタレが多く、豆腐や挽き肉は少ない。町の中華屋らしい安っぽさ。でも、そんなんでいいのだよ。
汗が多量に出て、額からしずくが床に垂れた。

『大人の流儀』読む。「許す力」というサブタイトルに惹かれて借りた。
許せないと思うのは、人に対してだろうか。行為に対してだろうか。
行為に対してなら、その行為を選択した人の、基準や精神状態や心の構造を、許せないということになるのだろうか。それは人を許せないということと違うのだろうか。
今での人生で、一番「許せない」ことをされた時は、許せないという気持ちよりも、なぜそんなひどいことをする? という思いの方が強かった。恨む気持ちはもちろんあったが、相手に対してより、そうなってしまった運命を憎んでいたと思う。
運命というのが、憎む対象としては間口が広いので、どこからどこまでを恨んでいいのか、途中でわからなくなってくる。自分自身も運命に含まれた存在なので、際限なく恨むと自分を恨むことになる。尻尾を飲み込むヘビのようなものだ。

「許す力」というタイトルについては、冒頭の文章がすべてを説明していた。許せないなら無理して許すことはない。許せないという自分で生きていくしかない。なるほど。

無理に、知り合い全員と親友になる必要はない。心の持ちようとしては、それに似ていると思った。

あっという間に午後6時。実家へ。

西葛西駅南口の木に、もの凄い数のムクドリが止まり、一斉に鳴いていた。どうして一箇所に集まるのだろう。他に木がないからか。たぶん、駅前は天敵がいないからだろう。

夕食にちらし寿司食べる。朝とったきゅうりにマヨネーズをつけて食べる。

実家に帰ると文春を読むのが習慣になっている。スクープにはまったく興味がない。読むのは連載のみ。
週刊誌としてのライバルは新潮だと思うが、連載に関しては文春の方が強力だ。それに、文春砲と言われるほどスキャンダル記事を前面に出す文春より、新潮の方が得ダネ率は低い割に、記事のトーンがゲスだ。
総じて、新潮は文春の劣化版という印象がある。

文春の連載には隙がない。小説、漫画、エッセイ、コラム、映画評、書評、Jボップ評、対談、読みたいものが沢山ある。本家の「文藝春秋」より面白い。スクープ記事がなくなって、連載ものだけの小さい雑誌になったら、たぶん毎週買うだろう。Webコンテンツでもいい。
文春砲は、売れるために必要なのだろうが、スクープ記事に惹かれて買う読者は、連載を読まずに捨ててしまうんじゃないか。まあ、オレもスクープ記事は読まずに捨ててしまうわけだが。
最近は森秀樹が描く、司馬遼太郎『幕末』の漫画化連載がお気に入りだ。新撰組、芹沢鴨暗殺に向けて暗躍する土方、近藤、沖田。見開きにして、絵の迫力に見入りながらゆっくり読んでいる。

『大人の流儀4』読了。奥さんのことを「家人」と書き、話す言葉をことさら丁寧にしているのがおかしい。それは母親の言葉も同様で、凜として楚々たる和風美人を想像させられる。が、一概に美化しているという感じもせず、好ましく読めるあたりが、芸のバランスだと思う。伊集院静の本は四十を超えてからでないと染みてこないかもしれない。

今年に入ってからずっと、ペンネームを考えてきたが、昔考えたあれしかないかなと今日思った。縁がないのに凝った名前をつけても仕方ないし。あの名前なら以前そうしようかと思ったことだし、Tシャツも持っているし。たぶん、そろそろあれにしてもいい頃合いなんだろう。

12時就寝。