わからないけど刺さるもの

7時過ぎに起きた。朝飯にチキンラーメンを食べた。
いつ買ったんだったか? 先週月曜か火曜に五袋入りを買ったのだ。
それを食べた。
食べてすぐ飽きると言われるが、そんなに飽きない。むしろ物足りなく感じる。1.5倍の大盛サイズが売られたら買う。
日清さんはコンビニと提携して、チキンラーメン用の容器と生卵セットを50円で売るといい。カップ麺にするよりそっちの方が売れる。ぜひ実現させて欲しい。
そして成功した暁にはわたしの三井住友銀行の口座にコンサルティング料を振り込んで欲しい。
気持ちだけで結構。現物支給はなしで。

9時40分に家を出る。阿佐ヶ谷に自転車を止め、JRで八王子に向かう。
到着時刻を調べたら、予定していた10時45分に間に合わないことがわかった。イシイさんに遅れる旨をメールした。

八王子に着き、ギャラリーに直接向かった。しかし、先に着いているはずのご一行がいなかった。途中で追い抜いてしまったようだった。待っていると、イシイさんとSさん夫婦が歩いてくるのが見えた。

オーナーに、置いてある物品の説明を受けた。設備より、物品やその成り立ちについての説明が多かった。古道具屋をめぐって入手した道具や、古い建具の説明をしてもらった。
オーナーは、見せたいものを次から次に思いつくらしく、予定したいた時間をかなり過ぎるまで見学をさせてもらった。たぶん、腰を据えて朝から晩まで見学させてもらった方が、見識が深まるかもしれない。

2時前にギャラリーを出た。オーナーに、庭先に生えているふきのとうをもらった。

コンビニでパンとおにぎりを買い、2時過ぎから稽古をした。ワタナベさん、疲れた様子だった。

読みをした。

イシイさん、終わってからSさんに感想を聞いていた。Sさんによると、最後がわからなかったという。
やっているオレは、ト書きや設定を知っているからわかるが、それなしで、立って動くこともなしの読み合わせ音声を聞いた人が、それだけで理解するのはかなり難しい内容のはずだ。
それでもSさんは一生懸命、どうするといいのかを考えてくれた。ほんとうにいい人なのだ。昔を思い出した。そうそう。そうだったんだ。Sさんは。

わかりにくい理由は、冒頭とラストが、演じる役者個人の独白になっているからである。その構造である以上、本に指定された役者以外がやると、宿命的にわかりにくくなる。

たとえば、ある有名な俳優がいたとする。見に来たお客さんの誰もが知っている人、できれば、エッセイを書いているような人が良い。
良い例が浮かばないので、仮に、竹中直人さんとしておく。
竹中さんが芝居の冒頭で、自分の書いたエッセイを読む。すると見ている人は、「あ、竹中さんだ」と思う。
そして、あるきっかけで芝居の本編に入り、竹中さんは役を演じる。お客さんは、「もう竹中さんじゃない」と思う。
芝居が続き、ラストになって、竹中さんは再び本人に戻り、自分の書いたエッセイを読む。お客さんは、「竹中さんだ」と思う。
そのまま芝居が終わる。お客さんは、芝居全体のどれが「竹中さん」で、どれが「竹中さんが演じた役」なのかが、わかっている。
しかし、竹中さんがやった役を、全然違うBさんという役者がやった場合、お客さんはどの部分を見ても「竹中さんだ」と思えなくなる。すると、芝居全体の構造もわかりにくくなってしまう。「Bさんが、役とは全然関係ないセリフを言ってたのって、いったい何だ?」となる。

Sさんがわからないと思ったのも、それと同じパターンだ。戯曲のメタ構造を、さらにメタで囲ってしまうことで生じた混乱だ。

でもオレは、「そんなこと、まるで気にしない」という方法で、やり通そうとしているようだ。だってさ、確かにわかりにくいんだけど、じゃあ、刺さりにくいか? いやいや。刺さると思うんだよな。

先の例に戻ると、Bさんが演じることになった時点で、その戯曲は、竹中さんにあて書きされたものから、普遍的な戯曲に変貌する宿命を負ったことになる。
よって、Bさんが演じることによるお客さんの混乱は、変貌の過程における必然的な反応と思うべきだ。
たぶん、そうやって、色々な役者によって次から次に演じられることで、その戯曲は普遍的な地位を得るのだ。
だから、わからない、という部分については気にしない。自分がわかっているということは押さえる。
そして、書かれている言葉で描かれる場面と感情を、ただ探して、潜っていくだけなのだ。どこまでも。

なーんてな。
偉そうに書いてみたが。
要は、戯曲の構造がこれこれこうだから、それをお客さんにわかってもらうために、というか、わかりやすくするために、やっている人が阿るのは、逆に、本質的な部分をわかりにくくさせるんじゃないかと思ったのだ。

なので、わかりにくさはまったく気にしていないが、オレ一人で航海をしているわけではない。勝手に傲岸不遜な態度を取ってはいけないなあと思った。

Sさんが先に帰ってから再び稽古をした。外見を気にせず、関係を作ることを考えながらやった。一場面をやるごとに、仲良しに、ツーカーに、名コンビになっていくように。
そういう方向で「演って」みることで、伝わる感情や空気がある。相手はどう変わるのか? パーソナルスペースに変化があり、踏み込んで来るかもしれないし、逆に壁を作るかもしれない。何が起こるかわからない。
でも、「演って」みて、それによって確かめながら、言葉にしないで作るのが、一番正しい方法だと思って、生きている。「演ってみて確かめて言葉にしないで作る党」という政党があったら比例区で投票するところだが、まだない。

5時終了。先々週の5時と比べて、外は一段と明るくなっていた。

6時帰宅。ご飯と納豆キムチを夕食に食べた。

なぜか落ち込んだ。演っている時は傲慢でいられるのに、終わって自分に戻ると、これでいいのだろうか、自分は無礼すぎるのではないかと、不安に苛まれる。
自虐は面白いが、時々、ガチの自虐になることがある。それは悪い自虐だ。戯れの対象として扱えないと、ひどく寒い事態を生ぜしめる。