「ジョーカー」観る

6時に起き、朝飯にご飯、豚汁、漬物を食べた。体の具合が良くなかった。疲れているなあと思った。
二度寝をすると、どんどん深い眠りに誘われた。8時過ぎに起きた時、頭がフラフラしていた。今日は休もうと思い、オフィスに連絡した。
そのまま横になり、11時過ぎまで熟睡した。昨日は11時半に寝たので、トータル12時間近くも寝たことになる。起きると、頭と体がずいぶん軽くなっていた。睡眠不足が蓄積していたのだろう。

昼飯を食べに武蔵野園へ。客が一人しかいなかった。
メニューを見て驚いた。カツ丼の値段が900円になっていた。前は700円か750円くらいだったと思う。消費税が10%になったことによる値上げだろうが、900円はかなり高く感じる。カツ丼で有名な西荻窪の「坂本屋」が800円だった。あそこよりも高くするのはいかがなものか。
それでもカツ丼を頼んだ。すると、カツ重スタイルで出てきた。味は良かったが、丼のままでいいのにと思った。なんなら、ふちが欠けているくらいのでいいのに。

1時過ぎ帰宅。眠気がまたやって来たので、3時まで寝た。

6時前に家を出る。図書館で本を借り、阿佐ヶ谷で自転車をとめる。国鉄で神田へ。車内で借りたばかりの『1974年のサマークリスマス』を読んだ。

歯の定期健診を受ける。前歯の補修剤が劣化してきたので、来週新しい物に替えましょうと言われた。

新宿へ。歌舞伎町に向かう。金曜の夜8時台だけあってさすがに混んでいた。どこかで飯を食おうと思ってうろうろするが、空いてる店などありようがない。結局、「天下一品」に入って、こってりの並を食べ、ハイボールを飲んだ。

9時前にTOHOシネマズ新宿へ。「ジョーカー」観る。
見終わって席を立つ時、作品から受けた衝撃で、足元がふらついた。
12時前帰宅。

「ジョーカー」は、「バットマン」の宿敵ジョーカーがなぜ悪の道に走ったのかを描く、エピソードOneもの、という体裁をとっている。「バットマン」の作品系列上にあるのではなく、悪が生まれるその時を表現するために、アメリカ人の誰もが知るコミックから設定を拝借しているだけという感じがした。

トゥレット症候群を患うコメディアン志望の孤独な青年アーサーを、ホアキン・フェニックスが演じている。笑ってはいけない時に笑いが止まらなくなる演技には迫力があった。

その笑いは、何を笑っていたのか?

舞台は80年代初頭、犯罪にまみれたニューヨーク。濡れた路面に町の明かりが反射するような撮り方をしていて、これが実にきれいだった。
他に、町を走る電車を真上から撮った映像、カウンセラーと面談する部屋の美術、アーサーがアパートに帰る時に通る長い階段を下から撮った映像、その階段でピエロのメークをしたアーサーがダンスしながら降りてくる場面など、映像が大変素晴らしかった。

アーサーは真面目で善良な男なのだけど、色々な人に虐げられる。中南米系少年ギャング、白人雇用者、ファッキンWASP勝ち組三人組など。アーサーの味方は、非白人のカウンセラーと隣人シングルマザー、白人の小人。アーサーは白人だが、そういったわけで、白人が非白人に虐げられているようには思えなかった。むしろ、アーサーを痛めつけているのは、金持ちの白人が多かったような印象を受けた。

物語の重要な転換点は、勝ち組三人組にアーサーがボコられる場面だ。
この場面に既視感があった。同じような場面を見たというのではなく、映像からかき立てられる不快感と怒りに覚えがあった。昨今、我々は、胸くそ悪くなる事件の映像をネットで見る機会が多くなったが、その時に感じる不快感にそっくりだった。

その不快感は、たちどころに大炎上をもたらしてきた。同じような映像が目の前に流れている。しかし、アーサーはその時たまたま、反撃の用意があった。
彼が、勝ち組三人組に反撃した瞬間、見ている人は反射的に、復讐の快楽を覚えなかったか? よしいいぞ、もっとやれと思わなかったか?

炎上事件の映像が胸くそ悪いのは、被害者が永遠に被害者のままであるからだが、アーサーはその場で復讐を果たした。この時点でアーサーは、多くの人が心に持つ、復讐心の源となる、どろっとした何かの、代弁者になっている。

彼はその後も虐げられ、嘲弄され、裏切られる。そして最後に、存在の根幹となっていた事実がひっくり返され、アーサーは結論する。人生は喜劇だと。

クリームの「ホワイトルーム」がラスト近くでかかった。そのことは知っていたので、いつ使われるか楽しみにしていた。きっと鳥肌物にちげえねえぞと。
しかし、映画そのものが与えてくれた鳥肌が、曲のそれを上回っていた。流れた時も、「あっ、かかってる」と、きょとんとしてしまった。もちろん、たまらない使われ方をしているのだが、曲に負けてる感じがしなかった。

芸術映画やアバンギャルド映画ではないが、娯楽映画でもなかったと思う。どう定義したものかわからない。
観た者にピエロの仮面をつけさせる力を持っているのは確かで、上映が危険視されているのは、大衆を扇動する恐れがあるからだろう。主義、人種、性別に関係なく、自分が虐げられていると感じている人に、強烈に訴える力がある。日本の場合は、格差社会の不満を感じている人が真っ先に反応するような気がする。

しかしジョーカーは、別にそれらの人々と共闘しようとは思っていない。彼はただ、人生は喜劇であるという結論にたどり着き、かつて必死に止めようとした自分の笑いを解放した。その笑いは、おのれの悲劇的な人生を笑いのめしていた。

トゥレット症候群の笑いは、アーサーの人生を笑うための笑いだったのだ。

解き放たれた彼は、世界を笑いのめすようになる。世界を悲劇だらけるする存在になっていくのだ。

こういう作品は、どこの政府も苦々しく思うに違いない。しかし、客がばんばん入るのだから、上映禁止にはできない。 まるで、資本主義の力を使って資本主義を批判しているかのようだ。芸術による反抗は、こういう形をとりうるのかと思った。そんな意図で撮られたのではないと思うが、これは、やはり毒だと思う。

毒は、どこまで回るだろうか?