きな臭い時代の記憶

6時起き。ご飯を炊き、味噌汁を煮干しで出汁を取って作り、ぬか漬けを切り、納豆をかき混ぜ、ハムエッグを焼いた。ビジネスホテルの朝食みたいだと思った。

小雨が降っていたが、夜になると確実に降るので、傘は絶対に忘れるなと、スマホの天気予報が偉そうにぬかしていた。蛇の目でお出かけモードに変身し、高速歩行で永福町まで歩いた。歩行時間を計ったが、いつもより1分しか違わず、ガッカリした。

午前中、昨日の夕暮れ時に依頼された季節ツールの改修をした。昼前に終える。その後は時間が出来たので、依頼ツールの作業にうつる。10月から作業が全然出来ていないのだ。

昼、コンビニでレッドフォックス食べる。

午後、依頼ツール作業を進める。実際に自分で使いながら、操作しやすい感じを探っていく。5時前にめどがついた。明日、見せてみる予定。

夕方西葛西へ。今日帰ると母にメールしていたのだが、返事がなかったので読んでいないと判断し、アコレで夕食のパンとハムを買い、実家に帰った。
メールは届いてないと母。iPhoneを見せてもらうと、iCloudの受信設定がオフになっていた。その場で修正する。
母、先週お寺で受けたカウンセリングの話をする。住職は、ただ話を聞いてくれるだけで何も言ってくれないのが不満だったとのこと。やはりそうなったか、と思った。母のストレスは、悩みを人に話せないことではないのだ。

父、山芋が食べたいと話す。西葛西に山芋専門の居酒屋があると言うと興味を示した。来週行ってみることに。

半藤一利『荷風さんの昭和』読む。 荷風さんの「断腸亭日乗」を手がかりに、昭和史と荷風史を対比させていく本だった。
昭和二年に始まった円本ブームは文筆家を大いに潤したと書いてあった。永井荷風も印税で潤っている。世は不景気だったので、これは意外、というより、盲点だった。
その後、満州事変、二・二六事件、日中戦争と続き、日本は戦争へまっしぐら。軍部のせいだけにするには無理がありすぎる。そう思いたがっている国民に相呼応して、マスコミはそう思わせる報道を提供した。日米開戦までは、戦争が国民の祝祭のようになっていた。日中戦争初期の漢口陥落など、まさにそうだ。
忘れてはいけないのは、戦争の悲惨さではなく、かつて国民がそうやって、戦争を祝祭としたことだ。
敗戦後も、国民とマスコミが相呼応することは変わっていない。そのまま74年が過ぎた。