作品を知ることと作者を知ること

7時起き。朝飯に、ご飯、野菜のタレ漬け。

8時に家を出る。新宿へ。

9時のあずさ号に乗る。車中、Netflix をWi-Fiでつないで見る。

甲府で降り、売店でおにぎりとパンを買う。身延線に乗り換え、波高島で下りる。何もない駅だった。

駅の小さい待合スペースでおにぎりを食べる。

歩いて美術館へ。20分くらいで着いた。道の駅もあった。

いい天気だった。

撮影しても良かったので、一眼レフで作品の撮影をした。途中でシャッター速度が速すぎることに気づいた。見ると、ファインダー内部のLEDが点滅していた。電池切れだった。こうなるとシャッター速度は125分の1秒固定になってしまう。

スマホの撮影に切り替えた。

1時間くらいかけて作品を見て、外に出た。道の駅でソフトクリームを食べ、ゆっくりと駅に向かった。午後4時前の電車に乗るつもりだったが、時間が少し余ったので、ホームのベンチに座り、『力と交換様式』を読んだ。隣に中国人の旅行者男子二人組が座った。

4時前の電車で甲府へ。ホームにて、去年青春18きっぷで旅行した時、停車時間の2分かそこらを使って駅弁とビールを買った売店をゆっくり見た。

あずさ号で立川へ。荻窪まで快速。地下鉄で帰宅。

作品は、一定のペースで量産されるとは限らない。常に作っていても、時間があくことは必ずある。

その時間の長さがそのまま、アーチストの悩みやスランプ状態を示しているということもない。モチーフに入り込み、入魂の時間を過ごすことで、作成期間が長くなることもあるだろうから。

外部の人間は、アーチストのそうした内面を知る術かない。なぜうまくいかないのかを、絶叫することで天に問う、その場に居合わせるわけではない。

逆に、素材もテーマもすべて掌中にある状態で、指先の動き一つ一つがまさに今世界を創造しているのだと感じられる没我状態の創作者を、目の当たりにしているわけでもない。

しかし、それでも、作られた順番に作品を見ていくことで、想像することはできる。この時期に何か、とても重要な出来事が作者に起きたのではないか、など。

そのように意識して作品を見ていくと、作者の人生を追いかけているような気持ちになる。ある時期からパッと何かがひらけたように作品の質が変わったということは、作者の人生にも、何か大きな出来事があったのではないか、など。

人生に起きる出来事ベースだけで考えると、いい事と悪いことの二択になってしまいそうだが、何が起きたにせよ、その経験が確実に作品に反映され、その作品が良きものである場合、生きることと作品を作ることが完全に同じになっていることを意味する。

そうなると、作品とは作者自身である。

作品を見ることは、作者を見ることであり、作品を知ることは、作者の人生を知ることである。

きっと、そのためなのだろう。目で見て、息を吐き、キャプションを読み、作品を時代順に頭で配置することを続けていると、この十年あまりの作者の人生を、追体験しているような気持ちになった。

そこに甘いものの介在する余地はない。

日々の人生にあるのは、覚悟の積み重ねと、真剣な迷いの歴史と、再びの決断と、さらに重みが加わった新たな覚悟の形であった。

それを、神々しい、と思った。他に、なんの感想が必要だろうか?

かつて、オレ自身が人生において苦しんでいたとき、それはすごくわかるけどオレが自分で何とかしてもらうしかないと言われたことがある。

あの時そう言ってくれたことが、本当に有り難かった。もし、そう言ってもらっていなかったら、今の自分は、今のようには存在していないだろう。ひどいことになっていただろう。

今日、目に焼き付けたこの記憶で、また、これからの日々を、自分でなんとかしながら、進んでいこうと思う。