朝8時前起き。9時まで『笛吹奴』と『東風』の練習。
健康診断の支度をしてから、10時に稽古場へ。『笛吹奴』は一応最後まで行ったが、慣れていない。『東風』はキー連打部分が最近の課題で、日々筋トレをしている感じ。
図書館へ行き予約した本を借りてから帰宅。水耕トマトの水補給をし、実を6個収穫。キッチンの洗い物をし、11時40分に家を出る。自転車で新宿へ。
12時20分から健康診断を受ける。呼び出しする人がオレを忘れていたみたいで、二人に順番を抜かされた。ムカついた状態で血圧を測定してもらったのでたかくなっていた。測定を後に回してもらった。
昨年の数値と比較するとあちこちが良くなっていた。昨年が悪すぎたのだ。理由はフルマラソン直後に脱水状態で受けたから。その分体重は軽かったが。
健診は自腹を切った。4月と6月は同じ保険だが、5月だけ国保に加入していた。そのため、4月までの保険と国保は、健診の案内が来た頃には保険をやめており、6月に入った保険は4月時点で加入していた人に健診案内がくるシステムだったため、オレは対象外となっていた。
国保の5月分は33000円もかかった。高すぎる。この月に医者へ行ったのは1回。かかった医療費は1000円未満。昨年のオレの年間医療費はトータル4万くらいなのに、なんでたったひと月の国保に33000円も払わねばならんのか。
健診後、『陳花私菜』でよだれ鶏のセットを食べた。健診後の定番コースになりつつある。
自転車で四谷三丁目へ。そこの駐輪場は安いからと思って移動したのだが、設備が変わり、前は一日100円だったのに、8時間ごと110円になっていた。
曙橋まで歩き、都営新宿線で船堀へ。
船堀シネパルで、宮崎駿監督『君たちはどう生きるか』を見た。今回は宣伝をまったくしなかったらしい。
『風立ちぬ』は、最後の作品と言われたけれど、まだ監督本人の俗な部分が残っていたと思う。しかし今回は、本当の意味で遺作になるかもしれないと思った。なにしろ、監督は今年83歳だ。いくらなんでも、これからさらに新作をポンポン作ることは無理だろう。今回だって、よく作れたと思う。
だから、前作に比べると、監督は、自分が作品をまだ作れるということについて、敬虔な思いを抱いたのではないか?
それとも焦りか?
いずれにしても、これまでの作品と同じようなものを見るつもりで構えていてはいけないと思った。
冒頭、空襲の描写。主人公の少年はマヒト。焼けた病院に勤めていた母が死んだことが示唆される。時が経ち、父は再婚し、マヒトは義母のナツコと疎開先の屋敷へ。父は軍需工場を経営しており羽振りがいいらしい。
屋敷には塔が立っている。大伯父が建てたらしい。大伯父は本を読みすぎて頭がおかしくなり、ある日、塔の中に入って、そのまま消えてしまった。
マヒトにつきまとう鳥がいる。アオサギ。そいつは、なんだかマヒトのことを見透かしたような行動をとる。
マヒトは、ナツコに対して丁寧な態度を取るが、母親とはどうしても思えない様子だ。
ある日マヒトは、ナツコが塔の中に入って行くところを目撃する。夕方、家のもの達はナツコが消えたと大騒ぎする。塔の中へ入っていったのを見たマヒトは、ナツコを連れ戻すために、塔の中へ入っていく。
以下、千尋的な異世界冒険譚となる。この部分は、そっちの世界に行ってしまった女を元の世界に連れ戻すという、極めて神話的な構造をしていた。ゆえに、その中で起きることは何でもありだった。これは、作家のイマジネーションが試される構造である。
ペリカン、インコ、巨大魚、ワラワラ、積み木などなど、それらの象徴的イメージには、わかりやすくしたり面白くしたりという興行的気遣いがなく、監督の脳に浮かんだイメージが、直接アニメーションとなって展開されているように思えた。いわば、宮崎駿という銘酒の原酒であり、普段我々が味わうことのできないものであった。
冒険譚が終わり、元の世界に戻ってくると、もうこの映画の役割は終わりだ。エンディングは、おそらく、宮崎駿でなければ許されないレベルで、そっけないものだった。でも、最後の場面になった瞬間、これで終わるな、という予感はあり、それが当たったことで、痛快さを感じた。
映画館を出てバス亭まで歩く時、足元がふらついていた。異世界で出会ったナツコがマヒトに「大っ嫌い!」と言う場面が、胸に突き刺さった。マヒトはたぶん、あのダイレクトなひと言を聞くことで、ナツコを近しい存在と思えるようになったのだ。嫌いと言われることで、好きになったのだ。好きになった瞬間、今、大っ嫌いと言われたことに思い至り、悲しくなり、その悲しさが思慕となって胸を満たしたんだ。いやー、すっげーよかった。染みた。
バスで西葛西へ。棒茅場通りをバスの中から眺めたのは数十年ぶりだった。
7時半実家帰宅。夕食に、トウモロコシ、バナナ食べる。
9時半就寝。