死ぬことについて

朝、8時起き。

朝飯にナポリタンを作って食べる。昨日、土井先生レシピで作ったものがとても美味しかったのでまた作った。材料がちょうど一食分余っていたので、どのみち作る予定だったが。

午前中、トゲトゲさんツールの集計結果を、別のツールから出した表と照らし合わせる。ほぼ、合ってきたのだが、あとは元データ由来の誤差がある。それは、俺にはどうにもできない。

昼、ご飯、鮭、茄子ぬか漬け、大根味噌汁という、朝飯みたいなメニューを食べた。こっちを朝食べるべきだったかもしれない。

午後、照らし合わせた結果をトゲトゲさんに送る。

喉の痛みも鼻水も治ってきたが、走るのは今日も控えた。無理する必要がまったくない。

夜、むかしマグで一緒に芝居をしていた望月くんからメール。明後日、出張のため上京するので、共通の知人であるヒデタケ君の墓参りに行くつもりだという。2年前にオレが詳しい場所についてメールをしていたので助かったという内容だった。

返信し、ヒデタケ君のことについて少々の思いを綴った。折り返し返事がきた。23日は仕事のために上京するのだが、午前中時間があるので行くのだという。ヒデタケ君の人となりについて、彼も少々の思いを綴ってきていた。

自分が死んだらどうなるかを考えた。

死んだら何もできないので、人に迷惑をかけない工夫は生前にしておかないといけないが、具体的にどういう方法をとっておくべきなのかは、今のところわからない。

FACEBOOK をやっているが、基本、インスタからの自動投稿主体で、週に数回発作的にくだらない写真と文を投稿している。自分が死んだとすると、最後の投稿までは生きていたはずだという手がかりにはなるだろう。そういう意味も、淡く込めている。生存確認みたいなものだ。

実際、明日死んだとしても、死んだ場所が自分の家だったら、気づかれるのは、何日も連絡なしに契約先との仕事を休んだため、エージェントからオレに連絡があるが、通じないため実家に連絡が行ったときだろう。実家から不動産に連絡が行き、不動産屋の人がオレの家に来て鍵を開け…

今、下らないことを続けて書こうとしてしまったが、やめた。真面目になろうとしたわけではなく、自分のしょうもなさの典型的パターンだったので、自主規制した。

調べてみると、独居老人の安否確認システムはあるようだが、年齢がそこまでいっていないもののサービスはないようだ。サービスと書くとなんか妙な心地もする。

自分の部屋は、大して片付いていないが、ゴミ屋敷状態ではない。地味な断捨離のおかげで、ものもわりと少ない。本は図書館で借りるため、本さえそれほど多くないし、ほとんどが文庫本だ。手書きの日記も数年前に焼却した。案外、大丈夫な感じになっている。

かといって、この文はフラグではない。死ぬ気はない。

それでも、死にうる。それは、いつ来るかわからない。

一昨年から去年にかけてハイデガーの『存在と時間』を、SNSでつながっている人に対し、自分が超頭がいい人と思ってもらうために読んだ。その目的はおそらく果たされなかったが、あれを読んだことで、生と死の両方が目の前に続いていくのだと意識しながら生きていくのがいいんじゃないかな? という考えが自分の中にできたと思う。イコール、あの大著の解釈というわけではないが、そういう考えが自分にできたのは間違いなくあの本を読んだからだ。

あの本を読もうと思ったきっかけは父の死であったが、動機自体は、昔読もうとして挫折したけど今のタイミングならすっと入ってくるんじゃね? というバカみたいなものだった。だとしても、死が自分になにかを考えさせてくれたことは間違いない。

1巻を読んでいる時に、ヒデタケ君の死を知った。すごく色々考えた。そして、ヒデタケ君に対してはもうできることはないのだなと思った。

墓参りは自分のために行った。行った方が彼を覚えていられるからで、彼を覚えているということは、彼の何かがしばらくは延命するからだ。どこで? というと、自分の中でだ。